神理

平成13年12月号
       第1054号

        

***** 巻 頭 のことば *****

 祭官が神前奉仕をする時、装束を着け、厳格な祭式作法に従う。
これは、誠こごろを表現する第一段階であるといえる。
心さえ誠があれば形式なんて、と言うのは言い訳であり、形に
心を表現してこそ、その誠は本当になる。
「対応の丁寧なるは美なり」との教えがある。心の中で舌
を出して丁寧に挨拶をしても通じるであろうか。心底から
の誠を持った表現が大事である。


                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
   ことおお  とし  をは
   事多き 年の終りは ことさらに
           おも  しげ    かみ  おめぐみ
         思ひ繁なり 神の御恩恵
 
 寒気が加わる中で、平成十三年も最終の月を迎える事となりました。不況からの脱出が出来ぬままの一年という事で
ありましたが、銘々なりに忍苦しながらも、どうにか無事健康に只今を頂くことになっているのは,実に有り難い所と感じ
させられております。
 ところで、本年も各種各様の出来事が続出しましたが、国内的なものとして最も印象的なのは小泉内閣の発足!かと
思われます。期待感をそそり立たせて停滞ムードを払拭、人心一新と言える状況を招いたのは、近来出色の内閣と申せ
るからであります。
 世界的な不況の余波もあり、形勢やや減速気味の様にも感じられますが、国運回復の熱意には変化なしと見受けられ
ますし、そうした熱意に連帯感を持つ国民が多ければ、いわゆる抵抗勢力も弱まり、開運の歩みも速まることになるものと
思われます。
 それにしても、イスラム教徒の連帯感には、驚異と共に脅威さえ感じさせられます。原理主義なるものを掲げての凶悪
卑劣なテロ組織に対し、それを擁護しかねぬ姿勢を示す人々が少なからぬのは、テロ組織の扇動による盲動とのみは断
じかねるからであります。
 米国では、なお三千人余といわれる遺体の収容と爆破倒壊したビルの後片付けに追われる中で、炭疽菌感染という騒動
で人心が落ち着かぬ状況の様でありますが、それでも尚、生命を賭しての派兵その他、国民としての連帯感は保たれている
と申せそうであります。    
 そうした連帯感が、排他的な方向に傾きがちな点は自制せねばならぬ所でありますが、それにしても我が国の場合、殊に
戦後、伝来の宗教によって培われたとも考えられる民族としての連帯感と共に、国民としての連帯感が減退の一途を辿って
いる様にも思われます。
 幸いに、本年の我が国は、例のテロ組織からの被害を免れていますが、向後も油断は禁物でありますし、国民としての連
帯感がなければ、防御も立直りも至難とすべきであり又、不況からの脱出にも不可欠な所と考えられます。良き年を迎えられ
ますよう念じつつ、所感の一端を申し述べ、平成十三年を終わるに当たっての御挨拶といたします。
  
                                             

オノズの道

 

自然(おのずから)(みち)

 

(さち) (ひこ)

自分(じぶん)()

 平成(へいせい)十三年も最後(さいご)(つき)(むか)えましたが、皆様(みなさま)にはどのようなお(とし)だったでしょうか。

 年頭(ねんとう)には(おお)まかな目標(もくひょう)()てた(かた)もおられるでしょうが、その達成(たっせい)()はいかがだったでしょうか。

 筆者(ひっしゃ)は、今年も目先(めさき)仕事(しごと)()(まわ)されされるとともに、(わか)いときに(おこた)っていたのか次々(つぎつぎ)人生(じんせい)勉強(べんきょう)体験(たいけん)をまとめてさせて(いただ)く、という()()けば充実(じゅうじつ)した?一年がまた(おわ)ろうとしています。

 目標(もくひょう)()てているつもりが、いや立てようと(おも)っていたのが、いつの()にかもう(おわ)っていたということで、毎年(まいとし)の事ながらお粗末(そまつ)なことです。

 ただ()(まえ)のものは誠意(せいい)()くして()()む、また取り組めるような環境(かんきょう)づくりを(いの)(こころ)がけております。

 (しん)理教(りきょう)には議会(ぎかい)責任(せきにん)役員会(やくいんかい)未来(みらい)委員会(いいんかい)婦人(ふじん)(かい)青年部(せいねんぶ)本院(ほんいん)には総代(そうだい)世話(せわ)人会(にんかい)素晴(すば)らしい人間(にんげん)環境(かんきょう)(かみ)(あた)えられ、(むずか)しい問題(もんだい)にも(あたた)かく積極的(せっきょくてき)(ささ)えお(ちから)(いただ)いておりますことを感謝申(かんしゃもう)()げます。

 お(かげ)今年(ことし)一年(いちねん)無事(ぶじ)()え、(あたら)しい(とし)(むか)えることが出来(でき)そうです。

 

 先日(せんじつ)テレビの(まえ)(とお)りかかると、まず(かみ)に大きく(えん)(えが)き、()ぎに()をつぶってその(うえ)をなぞるとどうなるでしょう?、というのをやっていました。

 大部分(だいぶぶん)(ひと)が、最初(さいしょ)()()けて(えが)いた円より、目をつぶってなぞった(ほう)(ちい)さくなるようです。

 人の習性(しゅうせい)というか錯覚(さっかく)(たし)かめる実験(じっけん)のようでしたが、私たちもある意味(いみ)では目をつぶって人生(じんせい)(ある)いているようなものです。

 (たと)えば人生(じんせい)目標(もくひょう)(しあわ)せな一生(いっしょう)として(えん)(おも)(えが)いたとすれば、実際(じっさい)の人生は目をつぶってその円をたどろうとするようなものです。

 自分(じぶん)がどこまで()たのか、このままの(はや)さで自分(じぶん)の思い(えが)いた円を(まっと)出来(でき)るのか、(いま)の今は程度(ていど)()こそあれ(だれ)にも(すべ)ては分かりません。

 目は見えていても、()れたり(くも)ったりする(きり)(なか)手探(てさぐ)りで(ある)くようなものです。

 

 テレビを見て、子どもの(ころ)()んだアメリカの童話(どうわ)(おも)()しました。

 白人(はくじん)がインディアンから土地(とち)()(はなし)で、なにがしかのお(かね)(はら)朝日(あさひ)(のぼ)ってから()(しず)(あいだ)徒歩(とほ)(ぼう)()てて(まわ)って(かえ)って()るというものです。

 その棒の内側(うちがわ)がその白人の土地となるのですが、(ひと)習性(しゅうせい)として(よく)()()ぎ棒や食物(しょくもつ)(みず)()って(ある)くのに(つか)()て、(なん)とか(かえ)ってきたもののそのまま()んでしまって(もと)()もなくなってしまうという(はなし)でした。

 (よく)程々(ほどほど)にというのが教訓(きょうくん)のようでしたが、筆者(ひっしゃ)何故(なぜ)か子ども心に、『でも(ちい)さな()(つく)りたくない』と(おも)ったものです。

 (おも)いっきり(おお)きな、それもとても(むす)ぶことの出来(でき)ないような(えん)(こころ)がけ、(すこ)しでもそれに(ちか)づく努力(どりょく)(たの)しめないかなと(かんが)えたものでした。

 それは地位(ちい)名誉(めいよ)やお(かね)目的(もくてき)ではなく、自分(じぶん)(ちから)をどこまで()()ばせるか、いくつまでそうした感覚(かんかく)でいられるかと(ちょう)(せん)する意欲(いよく)です。

 とにかく(おも)いきり()(ひろ)全部(ぜんぶ)(つつ)()みたい、という(ゆめ)のまた(ゆめ)()()()(だれ)にでもあるのではないでしょうか。

 いわゆる大人(おとな)(なか)には、もうそんな(ゆめ)(わす)れた人もいるでしょうし、(こころ)のどこかでおき()のように()やしている人もおられることでしょう。

 

 自分(じぶん)(こころ)他人(たにん)の心、またその(なか)(たと)えば親子(おやこ)兄弟(きょうだい)夫婦(ふうふ)のこと、()(なか)仕組(しく)み、歴史(れきし)科学(かがく)宗教(しゅうきょう)その()真理(しんり)について、()りたいことを出来(でき)るだけ(おお)きな全体像(ぜんたいぞう)(なか)でつかみたいといつも(おも)います。

 筆者(ひっしゃ)はそのために()どもの(とき)から(なん)十回(じゅっかい)(はな)(つづ)けた、目一杯(めいっぱい)(おお)きなつもりの()が十・二十・三十・四十(だい)(むす)びとなって(かえ)ってきているのを(かん)じますし、(いま)(はな)(つづ)けているつもりです。

 それが、()()れる知識(ちしき)(すく)なさや卑小(ひしょう)(のう)(りょく)から、(かんが)えた以上(いじょう)(はや)(ちい)さな()となって(かえ)ってくるようです。

 そんな(ちい)さな輪ならまだ()からない(ほう)がましなのに、と思う時期(じき)もありましたが、(おそ)年代(ねんだい)になって(もど)って()る輪ほど、それでも程々(ほどほど)納得(なっとく)となるのは()()満足(まんぞく)でしょうか。

 善意(ぜんい)悪意(あくい)やその根元(こんげん)自分(じぶん)他人(たにん)位置(いち)(いま)すべきこと、はっきり()えるとは()えないものの(あつ)(きり)(なか)から、輪郭(りんかく)のようなものが(かん)じられるというのは、素晴(すば)らしい感動(かんどう)です。

 そう(かんが)えると、莫大(ばくだい)なる(かみ)自然(しぜん)御心(みこころ)のほんの一部(いちぶ)()かってはいないという自覚(じかく)と、だからこそ(すこ)しでも分かりたい(ちか)づきたいという気持(きも)ちが大切(たいせつ)だ、ということになります。

 

 自分(じぶん)(しん)じる(みち)(ある)くということは大切(たいせつ)ですが、そのための手法(しゅほう)として、すぐに分かろうとするだけでなく、いつ返ってくるかも()れない大きな輪を自分(じぶん)()げかけ、(こと)なった見方(みかた)から遠近感(えんきんかん)()って物事(ものごと)(かんが)(かん)()れればと(おも)い6.

ます。

 物事(ものごと)全体像(ぜんたいぞう)をすぐにつかみ()(のう)(りょく)必要(ひつよう)ですが、その()でつかみきれないときに無理矢理(むりやり)自分(じぶん)納得(なっとく)させざるを()ない(とき)もあります。

 そうしたものを()()めておいたり、もう一度(いちど)(かんが)えてみようと自分(じぶん)自身(じしん)()げかけておくと、人間(にんげん)(あたま)というものは不思議(ふしぎ)なもので、日常(にちじょう)使(つか)意識(いしき)(どう)()にそうしたことも(かんが)えているもののようです。

 『これでよい、もういいか』と自分(じぶん)()げかけると気付(きづ)くものも気付かないし、『物事(ものごと)をもっと(ひろ)()たい』と投げかけると、自然(しぜん)(みみ)をすまし感覚(かんかく)()ぎすまされるものです。

 (よく)(ゆめ)別物(べつもの)で、(うち)()かっては自分(じぶん)(こころ)(きよ)(おも)いを(ふか)め、(そと)に向かっては家族(かぞく)社会(しゃかい)自然(しぜん)(かみ)に心を(ひら)真理(しんり)(うかが)気持(きも)ちが、よりしっかりとした人生(じんせい)(あゆ)ませるといえますし、(わか)さの秘訣(ひけつ)だと(おも)います。

 

 来年(らいねん)目標(もくひょう)は、沢山(たくさん)(ひと)()気持(きも)ちになって(いただ)くような言葉(ことば)かけや企画(きかく)をしたく、そうした()自分(じぶん)自身(じしん)にも()げてみたいと思います。

 皆様(みなさま)も、よろしくご参画下(さんかくくだ)さい。ご一緒(いっしょ)しましょう。

                

☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

 
Q1  お正月の門松には、どんな意味があるのですか。

 A 「門松」は、新年を祝い、その年の歳神さまをお招きするための依代(よりしろ)と
   しての意味があります。
    元来は、松・杉・椎(しい)・榊(さかき)といった常緑
   樹を用いて飾っていましたが、いつしか松を用いるようになり、そのことから門松と
   呼ばれるようになりました。 現在の門松は、竹三本を松で囲み、荒縄で結んだ形が
   一般的ですが、地方により様々な飾り方があるようです。
    また、門松や注連飾り(しめかざり)などの正月飾りを取り除く日は、1月7日に
   定めている地方が多く、正月をひと区切りする意味で、元日から7日までを「松の内
  (うち)」といいます。

Q2  大祭・地鎮祭等の祭典中に、祭官が「オー」という声を発するのは
    何のためですか。

 A  大祭や地鎮祭などで行われる降神や昇神の際に、祭官が発する「オー」という声を
   「警蹕(けいひつ)」といいます。
     警蹕の「警」には警戒するという意味があり、「蹕」には行く人を止めるという
    意味があります。 つまり警蹕とは、天皇や貴族などの貴人が通行する時に、人々が
   不敬な行為をしないようにと先払いが声をかけて注意をし、警戒するということが元々
   の意味です。
   このことが神事においても取り上げられ、降神や昇神の際に、用いられるようになりま
   した。 警蹕の発声は、一般的に「オ」または「ヲ」の音を、長く伸ばすものとされて
   いるようです。
                
  

戻る