神理

平成13年11月号
       第1053号

        

***** 巻 頭 のことば *****

 我々は平等に神様から「おかげ」をいただいている。
「ありがたい、ありがたい」と思う人。
「そんなものあるものか」と思う人。
受ける人の方から不平等を作っている場合がある。
その「思い」の違いは、心の余裕に差となって現れてくる。
余裕は人柄につながり、その人柄は善い気・悪い気の発信
元となると言っても言い過ぎではない。
「ありがたし  かたじけなしと  思うその  
神の心に  御かげあるなり」(教祖御歌)


                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
   おも      くに  めぐみ ねが
   念はばや 国の恩恵を 願はばや
           くに めぐみ   そ   ま    よ
         国の恩恵の 添ひ増さる世を
 

  秋季例大祭は、事前からの御奉仕に始まり、遠方からの御参拝もいただくなどの中で、にぎやかに恙なく斎行し終わる事となりました。
この大祭に寄せられた皆様の真心に感謝申し上げますと共に、その真心なりに御神護が添えられるよう祈念しております。

 ところで先月には、遂に米国が、空爆に始まる報復の軍事行動を開始しました。止むを得ずと受け止める人が圧倒的多数の中で、アフガニスタン
の一般国民への同情から『不穏当』、更には全く『不当』と決めつける声も、聞かれるようであります。

 それにしても考え合わされるのは、先ごろ中国を訪問した小泉首相が、戦後満五十五年を経過した時点で、なお先の大戦について謝罪の意?
を表したという事であり、これは当時の日本の姿勢が宜しくなかった!と言う立場に基づくという点であります。

 即ち、いささか非情な見方をすれば、国の姿勢が悪いのは、国民の姿勢が宜しからぬ結果と申せますし、苛酷悲惨な現状はアフガニスタンの
国民自身が招いたと見る事も出来ぬではなく、それは国益との接点を意識しない生活姿勢に因るようにも思われます。

 この事は、日本という国と、その国民としての我々との関係に重ね合わせて、熟慮用心しておかねばならぬ所でもあります。敗戦後の外国人支配
その他により、日本人の志向も大きく変化し、国益との接点を意識する生活姿勢は激減!という事になりました。   
 
 国益という視界が、地球という広い視界の中に位置づけられねばならぬのは無論の所でありますが、現今の様な国際情勢が続く限り、国益優先は
不可欠とすべきでありますし、我々の生活も、国益との接点を意識する中で、進められねばならぬと考えられます。

 深刻な受け止め方をすれば、アフガニスタン程ではないとしても、国勢立て直し必至の時?と申せそうであります。このままではテロ防止はおろか、
テロ誘発の危惧さえ感じられますし、我々としては、国益との接点を意識しながらの生活に心掛け、これによって治安が行き届いて身辺への危害も
少ない国勢を、再構築せねばならぬと思います。

  
                                             

オノズの道

  

自然(おのずから)(みち)

                (さち) (ひこ)

 現代の病気

 自然(しぜん)社会(しゃかい)環境(かんきょう)変化(へんか)から、身体的(しんたいてき)精神的(せいしんてき)にも(あたら)しい病名(びょうめい)()えています。

 ()()れない現代(げんだい)病気(びょうき)は、どこから(なに)原因(げんいん)にして()るのでしょうか。

 (わたし)たちや私たちの()どもそして子孫(しそん)は、そうした病気(びょうき)(かか)っているまた今後罹ることはないのでしょうか。

 自分(じぶん)のこと、あるいは自分の身近(みぢか)な人のことのように心を()せ、自分がしてあげられることを普段(ふだん)から(かんが)えておくことが大切(たいせつ)(おも)います。

 今回(こんかい)は精神的なものを()()げました。

 

 神理(しんり)幼稚園(ようちえん)毎月(まいつき)(ひら)かれている“(すず)小鳥(ことり)の会”という障害児(しょうがいじ)(かんが)(ささ)()(かい)で、あるお(とう)さんが参加者(さんかしゃ)()()けました。

(みな)さんは、(たと)えば(みち)(ある)いていたり電車(でんしゃ)()っていたりしていて、奇声(きせい)(はっ)っしたり奇行(きこう)奇妙(きみょう)行動(ぎょうどう))をする人(障害者(しょうがいしゃ))がいたらどうしますか?」

 この問いに参加者は戸惑(とまど)っていましたが、やがて、

()らん顔をする』、『見て見ぬ()りをする?』(など)(こた)えがありました。

 参加者(さんかしゃ)のほとんどは障害者(しょうがいしゃ)理解(りかい)()っている人たちですが、まず様子(ようす)を見ようということのようです。そこで、

『同じ知らん顔をするのでも、その心の中は雲泥(うんでい)()があるのでしょうね。

 その奇行(きこう)奇声(きせい)(はっ)する人のことや障害者(しょうがいしゃ)のことを理解(りかい)できない人は、薄気味悪(うすきみわる)(おも)うだけでしょう。

 (かた)や理解していれば奇行・奇声を発する人の(よこ)にいて、さりげなくその人が満足(まんぞく)のいくように手助(てだす)けをしてあげたり、他人への迷惑(めいわく)制止(せいし)することが冷静(れいせい)出来(でき)るのです』という(はなし)になりました。

 

 人は理解(りかい)できない出来事(できごと)()の前で()こると、(おこ)ったり軽蔑(けいべつ)したりすることでその()(のが)れをしがちです。

1.  

 そしてその行為(こうい)がどんなに他人を(きず)つけているか気付(きづ)かずに、その()(のが)れたことにホッとして、その場面(ばめん)さえ(わす)れてしまうことがあります。

 (すこ)我慢(がまん)をして、少し余裕(よゆう)()って見直(みなお)せば()()くことなのに、それをせずに不意(ゆくり)なく(=気が付かずに)そうした(つみ)(おか)してしまうのです。

 私たちは気が付かずに(おか)している(つみ)に気付かず、(おか)している事に気付いてもその罪を()くことに気付かずに生活(せいかつ)していることが(おお)いものです。

 私たちは、他人(たにん)から()けられる迷惑(めいわく)を自分の勉強(べんきょう)修行(しゅぎょう))とし、他人に掛けられる迷惑を(たよ)りにして(たす)()()きる存在(そんざい)です。

 だからこそ自分(じぶん)や自分の子孫(しそん)がそうなったときのことに(おも)いを()せ、自分が(なに)をしてあげられるのか、どんな心持(こころも)ちで(せっ)するかをご一緒(いっしょ)に考えられればと(おも)います。

 

 リフトカッター

 NHK(エヌエイチケー)TV(テレビ)ドキュメンタリー(虚構(きょこう)のない実際(じっさい)のままを記録(きろく)した)番組(ばんぐみ)でこの(だい)を見た時、筆者(ひっしゃ)(なん)のことか()かりませんでしたが、その(とお)りに(やく)せば『手首(てくび)()る人』とでもなるのでしょうか。

2.  

 この行為(こうい)()(かえ)(なか)で、最後(さいご)には()んでしまった(むすめ)()(かえ)作業(さぎょう)をする父親(ちちおや)(はなし)でした。

 ただ自殺(じさつ)をしようとして手首(てくび)()るのではないということがわかるにつれ、番組を見る私たちに“それは何故(なぜ)”という新しい疑問(ぎもん)()いてきます。

 (むすめ)遺品(いひん)整理(せいり)しているうちに(ちち)日記(にっき)を見つけるのですが、それこそは娘が世の中に(のこ)したい、父を(ふく)めた世の中に(うった)えたいものが(かく)されていたのです。

 毎日(まいにち)のように手首を切りながら、娘は決して死にたくはなかったのです。

 (ちち)は娘の(はは)でもある(つま)(わか)れ、男手(おとこで)(ひと)つで懸命(けんめい)に働き娘を(そだ)て娘もそれに(こた)えるという、いわゆるとても()()であったようです。

 娘は良い子であることに(つか)れながらいじめに()い、父と力を合わせてそれを克服(こくふく)した経験(けいけん)もあるのに、どうしてこうした結果(けっか)となったのでしょう。

 どうしてこんな目に()うのだろうと、父も思ったことでしょう。

 

 シンナーや覚醒剤(かくせいざい)、また家庭内(かていない)暴力(ぼうりょく)などの問題(もんだい)()家庭(かてい)から依頼(いらい)され奉仕(ほうし)する人と(はな)した時、すぐに言われたのが、

(しん)理教(りきょう)の教えにもあるのじゃあないですか?

 (おや)()わらなければダメですよ」でした。

 では、こうして一生懸命(いっしょうけんめい)(はたら)いて子どもを(そだ)てようとしているのに、こうした問題が出来(でき)てしまった親はどうすれば・どう変わればよいのでしょう。

 どうしようもない環境(かんきょう)(うん)不運(ふうん)(のぞ)いて、こうした問題が()きない家庭(かてい)とどこが(ちが)うのでしょうか。

 戦後(せんご)表面化(ひょうめんか)した夫婦(ふうふ)嫁姑(よめしゅうとめ)確執(かくしつ)(くわ)え、近年(きんねん)拒食症(きょしょくしょう)過食症(かしょくしょう)登校(とうこう)登社(とうしゃ)拒否(きょひ)帰宅(きたく)拒否(きょひ)大便(だいべん)排泄(はいせつ)拒否(きょひ)という症状(しょうじょう)を聞きます。

 最近では、先ほどのリフトカッターの他にプチ家出(いえで)数日間(すうじつかん)限定(げんてい)?の家出)や恋愛(れんあい)依存症(いぞんしょう)等、聞き慣れない現代の(やまい)があるようです。

 プチ家出(いえで)の理由は、家に帰ると一時(いっとき)(やさ)しい家庭の雰囲気(ふんいき)を繰り返し味わおうということのようですし、恋愛(れんあい)依存症(いぞんしょう)も家では獲得(かくとく)できない()()いをウソでもいいから()たいということのようです。

 

 一律(いちりつ)(たば)ねた原因(げんいん)は言えないものの、現代病(げんだいびょう)根本(こんぽん)には不安(ふあん)とそれを(いや)家族(かぞく)不在(ふざい)()(まえ)にはいても)があるようです。

 そうした不安(ふあん)表現(ひょうげん)するのに、本人(ほんにん)も理解できない無意識(むいしき)のうちにこうした現代病(げんだいびょう)症状(しょうじょう)(あらわ)すということのようです。

 リフトカッターのお父さんが()らした言葉(ことば)に、

「あの時は、(むすめ)手首(てくび)()っていることを()っていても、何故(なぜ)だろう自分は一生懸命(いっしょうけんめい)してやっているのに、としか考えられませんでした。

 もう少し(むすめ)立場(たちば)から考えていれば…」というようなことを言っていました。

 自立(じりつ)(うなが)そうと()(はな)愛情(あいじょう)は、子どもに不安(ふあん)(あた)えたり心の負担(ふたん)となってしまうこともあり、かえって過保護(かほご)の方が良いという研究(けんきゅう)発表(はっぴょう)を聞いたことがあります。

 

自分(じぶん)()わらないと、親子(おやこ)夫婦(ふうふ)関係(かんけい)は変わらない。

 子どもは(おや)の言うことは聞かないが、親のすることをする』といいます。

 その()(おう)じて親や身近(みぢか)の人がその子の立場(たちば)から考え、私たち自身(じしん)もそのように(ささ)えてくださっている私たちの親やご先祖(せんぞ)、大元のご先祖である神の存在(そんざい)(たよ)りにして()きて()きたいものです。

 神とご先祖に頼り相談(そうだん)相手(あいて)とすることに気が付けば、こうした(やまい)()るだろうにと思いませんか?

                

☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

 
Q1 大祭等の祈念詞で、「辞別に白さく・・・」以下が省略されるのはどうしてですか。
        

 A  これは、その祝詞を見て理解できるように、『朝に夕に…』という言葉から、祭事のためではなく、毎日の御神拝の事を指して
  います。ですから、辞別に…』を奏上するのは、通常、朝夕の御神拝の時だけです。
   但し、本院では、教祖祭の本殿でのお祭りの際にも奏上しています。

Q2 お祭り後に行われる直会の意味について教えて下さい。
 
 A 「直会」とは、神様にお供えした御神酒や神饌を、祭典終了後に下げて、これをお祭りに関わった人たちで、共に頂くことを云い
  ます。
  祭事を行うためには、潔斎をして心身の清浄につとめたり、様々な準備等で、気の入った特別な状態になっています。
   この特別な状態を解きほぐす為に、神様にお供えした、神気のこもったものを頂き、平常の状態に戻すという意味があります。
  直会の語源は「直り合い」をつづめたものといわれていますが、この場合の「直る」とは、平常の状態に戻ることを意味して
  います。 このように、直会とは祭典の締めくくりとして、重要な意味を持っています。

                
  

戻る