神理

平成13年10月号
       第1052号

        

***** 巻 頭 の言 葉 *****
明日の事は解らない。一週間後、一年後・・・誰も解らない。
全て一切は、神の理によるものであるから誰も解るハズがない。
要は、神を頼り信じて、「おまかせ」しながら日々を暮らすことが出来るか否かである。
神と先祖と手をつないで歩き進む気持が大切である。


                かんなぎべ  たけひこ
  神理教管長   巫部  健彦
   くに おも  くに  つ           また
   国を思ひ 国に尽くすは やがて又
           わ   み  つ    みち    み
         我が身に尽くす 道かとも見ゆ
 

  秋は、もの思う季節と言われております。山川草木の気配とともに、小泉内閣発足以来の騒動も次第に沈静化、失業率5%をはじめとする
景気悪化の諸指数が報じられる中で、正に、もの思わせられる秋も、本番の十月を迎えることとなりました。
 総論としては、最大野党も賛成していた「構造改革」でありますが、各論として具体的に論議され始めることになると、まずは足元の省庁内か
ら反対論の火の手があがり、これに与野党も加わって、徐々に大きく勢いづくことになりそうであります。
 官僚といわれる人々の縄張り意識や既得権への固執と、族議員といわれる人々の権威や権益への執着とが、その反対論の根底にひそめい
ている!という声も聞かれますが、何よりも望まれるのは、大臣といわれる人々の奮起・勇断!と考えられます。
 又、官僚といわれる人々や、議員として国政に直接たずさわる人々も、姑息な手法での自己保身に拘ることなく、国家の保全という広い視野
に立って論議を進め、それも可及的速やかさでの結論到達!ということに挺身してもらいたいと思います。
 国民が居てこその国家!とは申せますものの、主権在民という言葉は、決して個人の生活上の権利・権限を指すものではなく、その主権とは
国家統治に関するものであります。即ち、国家を意識した上でこそ用いられねばならぬ言葉、という事になります。 
 経済大国と言われる安定した体制が続いた為、さほど国家を意識せずにすんで来ましたが、その経済も治安も悪化の一途をたどり、主権者た
る我々としては、国家を意識した行動に心掛けねばならぬ時を迎えた!との認識が不可欠となったように感じられます。
 現実として、国家の内実が衰退すれば、国民一般の生活も衰退する事になります。仮に例外者がいたとしても暫時の事に過ぎず、寧ろ本来
の「主権在民」への理解を共有して、先ずは国運回復への「国是」を決定し、その「国是」の実行に一致協力する外なしと思われますし、思いやり
と助け合いの心を力としての前進に、努めたいものであります。

                                             

オノズの道

自然(おのずから)(みち)

(さち) (ひこ)

()()なるもの二つ

人間と動植物

 最近の本誌(ほんし)の“Q&A”やその感想(かんそう)意見(いけん)で、ぺットの葬式(そうしき)や動物をはねた車のお(はら)いの程度(ていど)話題(わだい)になっています。

 やはり本誌の“教祖(きょうそ)道統(どうとう)解説(かいせつ)”では、人間も動植物(どうしょくぶつ)も神から(つく)られたという()(おな)じくするものでありながら(ちが)いがあると教えています。

 ()()なるもの、とも言えます。

 その(ちが)いは、(おな)じ神から(つく)られたものでも直接(ちょくせつ)神=(てん)()を受けたものと、一旦(いったん)神に(つく)られた()()から二次的(にじてき)に生まれたものとの(ちが)いです。

 また人が神と(おな)(ぞう)化者(かしゃ)またはその助長者(じょちょうしゃ)であるのに(くら)べ、動植物はその目的(もくてき)()たすためのいわば道具(どうぐ)である、と教えているのです。

 ペットも私たちの心を(いや)すためのある意味(いみ)での道具(どうぐ)であり、それは神や祖先(そせん)から(いただ)本来(ほんらい)霊魂(れいこん)(あん)(てい)のための(たと)えば“(まつ)り”からくる(いや)しや安心(あんしん)との(ちが)いと(おな)じです。

 

 考古学(こうこがく)生物学(せいぶつがく)などからも、人間と動植物の(ちが)いが研究(けんきゅう)されてきました。

 火や道具(どうぐ)使(つか)うとか、(のう)(こう)(ぞう)(はたら)きの(ちが)いの研究(けんきゅう)がなされているようですが、道具(どうぐ)を使う動物も結構(けっこう)見つかっているし、脳や体のDNA(さる)などとほとんど(おな)じだった、ということも聞きます。

 感情(かんじょう)など()たないと思われていた動物が、子どもや親の()(かな)しむ鳥類(ちょうるい)(さる)仲間(なかま)もいることが分かってきました。

 筆者(ひっしゃ)が思う人間と動植物の(ちが)いは、親子(おやこ)(もと)より先祖(せんぞ)大切(たいせつ)にする、ま

(かん)じることが出来(でき)るか、だと思います。

 (いぬ)嗅覚(きゅうかく)(とり)視覚(しかく)・ナマズの触覚(しょっかく)・コウモリや()聴覚(ちょうかく)、また動けない植物の生きるための感覚(かんかく)機能(きのう)には、目を見張(みは)るものがあります。

 しかし人間の祖先(そせん)やその大元(おおもと)自然(しぜん)=神の存在(そんざい)(たい)する霊感(れいかん)というか()づき、また子孫(しそん)への(かぎ)りない愛情(あいじょう)は、他の動植物に持ち合わせないものです。

 

 ある時、本院の境内(けいだい)(はか)を持たれ、もう以前(いぜん)から(とお)くにお()まいの方から連絡(れんらく)がありました。

「この(たび)義父(ぎふ)納骨(のうこつ)をしたいのだが自分は(おっと)であった義父の長男(ちょうなん)とは別れていて連絡(れんらく)も取れない。

 自分は行けないので夫の子どもに帰院(きいん)させるが、この納骨祭(のうこつさい)(もっ)て夫の家との(えん)を終わりにしたい」ということでした。

 借財(しゃくざい)などのある家らしく、負債(ふさい)(とも)(えん)()りたいようです。

 しかしよく話を聞いてみるとその帰院する子というのは夫の名字(みょうじ)()いでいる、ということは夫の家のご先祖(せんぞ)()っているのです。

 借財(しゃくざい)負債(ふさい)とご先祖は別物(べつもの)で、(えん)()りたくとも子孫(しそん)から切れるものではなく、(はか)のご先祖を()てたつもりでも子どもはその家の名前を持ってやがて墓に入るのだから、ご先祖(せんぞ)もお墓の土地も粗末(そまつ)になる。

 そうした話をしたところ納得(なっとく)されたようで、永代(えいだい)祭祀(さいし)のお(まつ)りをされ(はな)れているので管理料(かんりりょう)(おさ)められたということでした。

 

 また、霊祭(れいさい)(うかが)った家で故人(こじん)の子どもなのに(まつり)をしようとも言わないし、参列(さんれつ)しようともしないと(なげ)く声をよく聞きます。

 人間と動物の(ちが)いの話をすると、「うちの子どもは動物以下だな」と(わら)い話になりますが、これも考えると笑えない話です。

 自分の子どもと一緒(いっしょ)に神と祖先(そせん)に手を合わせるのは、決して宗教の()しつけや()えつけではなく、人の道の植えつけだと言えます。

 ()いことは、言って・(おこな)って見せて・やらして・()めることを続けるべきで、それが人の道であることを私たちは(わす)れがちです。

 人間のなんたるかを意識(いしき)し、人間らしい生き方に日々新たに思いを()せたいものです。

神道と他の教え

 本院の教徒(きょうと)の家のお(まつ)りや、教会(きょうかい)の勉強会に(うかが)ったとき、

「神理教は、他の教えを批判(ひはん)するような(はげ)しい教えでなくて良かった」とか、「私がこの教会に来るようになったのは家の宗旨(しゅうし)(みと)めて下さり、変えるように等と言われないことが()かったからです」とお話を(いただ)くことがあります。

 宗教(しゅうきょう)感謝(かんしゃ)する心を(そだ)てる()であり安心への道を()る場、という目的からすれば()たものでありながら、その手法(しゅほう)・考え方に()なるところがあります。

 大元(おおもと)の神を私たちの祖先(そせん)とするか(べつ)存在(そんざい)とするか、の(ちが)いは以前からお(はな)ししているところです。

 神道(しんとう)では人は神を大元の祖先と(した)い神は人を子孫(しそん)(いつく)しむという、いわゆる()でつながると考えますが、他の教えでは(まった)く別とするものが多いようです。

 身近(みぢか)習慣(しゅうかん)では、例えば仏教やキリスト教でも基本的(きほんてき)肉食(にくしょく)妻帯(さいたい)(きん)ずることと、反対にそれを奨励(しょうれい)する神道の(ちが)いです。

 食べるものに禁忌(きんき)がないのは、最初に()べたように全てのものが修理(しゅうり)()(せい)(世の中を良くしようとする)の主体(しゅたい)である人間のためにあること、食べ物を神に(ささ)仲間(なかま)()かち()(よろこ)び生きるための栄養(えいよう)をつけるためです。

 妻帯(さいたい)(結婚をする)を(さまた)げないのは当然のことで、子孫が繁栄(はんえい)するためであり、皆が妻帯を(きん)じられれば子孫(しそん)もなく、人類は(ほろ)びてしまうのです。

 

 大元(おおもと)の神の御徳(みちから)(おお)らかで一貫(いっかん)した教えを(いただ)いて、ご先祖()いては私たちをお守り頂こうというのが本教の趣旨(しゅし)で、この教えをどう生かすかは最後はご自分(じぶん)で考えるところなのです。

                 

☆★☆ 素朴な疑問 ★☆★
     
 Q & A

○○○ 九月号 Q、動物をひいた車は、お祓いした方がいいでしょうか。 ○○○
       に対する再回答

A 先月号の回答は、基本的に御教祖の考え方に基いての回答であ ります。
  詳しく説明致しますと、本教の「神理にゅうもん」のP91にも書かれていますが、物や動物は、「地の気」によって生じたものであり、人の霊魂
とは質が異なるものなので人に災いすることはないと考えます。
 よって、通常は塩で祓う程度で十分だと思います。
 しかしながら、迷いを持つ霊魂が、特定の動物に憑依している場合があります。そうした動物を轢いてしまった場合は、神職によるお祓いが必
要です。


Q1 おみくじの凶を引いたら、どうすればいいのでしょうか。 
 
A1 おみくじは吉凶の占いであり、その時々の指針を決めることに使われます。
 吉凶は、運の善し悪しよりも運の勢いを表し、凶とは占ったことが吉よりも勢いのないことを示します。
 たとえ大吉が出ても、吉は凶にかえるといって油断は禁物であり、また凶が出てもやがて善くなることのお知らせですから、落ち込むことはあり
ません。
 そういう時こそ、神様に心を合わせ、御守護を願い、何事も今まで以上に努力することが大切です。


Q2 神無月に、神様がいなくなるというのは本当ですか。

A2 十月には「神無月」という異称があり、その語源については諸説ありますが、一般的に知られている説として、十月には全国各地の神様が
出雲大社に集まって不在になるところから「神無月」とする、藤原清輔(きよすけ)の「奥義抄(おうぎしょう)」の説があります。
 でも、実際には神嘗祭(かんなめさい)を始め、全国各地で秋祭りが盛んに行われている事実からみても、神様は、昼夜を問わず私たちを見守
っておられます。
 しかし、人の立場から神無月の意味を考えてみると、神様を見失い易い月ということが考えられます。
 神様の御守護は、いつでも変わることがありませんが、人の心は、移ろい易いものです。
 日頃の神様に対する感謝やお陰を、年間を通じて一番忘れやすい月ということでを戒めているのかも知れません。
                          
  



戻る