神理

平成13年2月号
       第1044号

ライン45

       ***** 巻 頭 の言 葉 *****
 
 姿見に映る自分の姿は前面であり、後姿は見えない。

 見えない後姿は他人からは見えている。
                      
わか
 行いや性格や人柄など、他人から解る部分が後ろ姿にはある。

 前面の姿が自己の全てではない。

 他人の後姿をみてとやかく言っているように、

 自分の不完全さを忘れている場合が多いのである。
  

 「善き人の よき行いは 少しでも
 
         学びておのが 鏡とぞせよ」

ライン45

管長
かんなぎべ  たけひこ
巫部   健彦
 
 生かされて 今を生きゆく 身なりぞと 
               
           共に思はば ともに栄えむ
                                              
                           神理教管長  巫 部 健 彦 

                                          
  お互いの日々の生活は、凡そ自分以外の人々との付き合いの中で営まれている、と申せる様

 であります。仮に直接的な付き合いのない時間帯にいる場面でも、それが自分以外の人々の生
                                
 活とは全く無縁!とまでは申し兼ねるものがあるように思われます。

  それは、そうした時間帯が持てるのは、そこまで育ててくれた環境が有ったればこそ!と申

 せるからでありますし、又、その時間帯での過ごし方についても、日常的な関係での前後につ
                                    
 いて、配慮を強いられる状況のある事が、容易に推測できるからであります。

  お互いとしては、直接的な付き合いだけを関心事として、相手その他の選択は自分の裁量内

 と思い込みがちでありますが、やや直接的な付き合いの場合でも、自分勝手な裁量とは無縁に
                                  
 付き合いを強いられるという側面も有る、という事になる訳であります。

  その自分の裁量内とする考え方は、自分の力で『生きている』とする受け止め方に通じるも

 のと思われますし、自分の裁量外で寧ろ強いられている側面も有るという見方は、自分以外の
                                 
 力で『生かされている』という受け止め方に通じるものと考えられます。

  それこれ考え併せると、自分の力で『生きている』とする受け止め方には、視野の狭さ故の

 無理が感じられないでもなく、自分以外の力によって『生かされている』という受け止め方に
                                 
 は、生物全般の実態に即して寧ろ穏当な合理性がある様に思われます。

  お互が、その付き合いについても『生かされている』という受け止め方に立って見直す事に

 なれば、不可避な関係という認識の下、相互関係を簡単に破壊するという風潮は抑止されるに
                                 
 相違なく、更には物心両面で豊かになる事も期待できそうであります。
                                           
  現今の奇怪な出来事の続出は、相互関係を軽視・破壊するという風潮に因る様にも考えられ

 ぬではなく、自分の力で生きている!という思い込みの強い人が引き起こしている様にも思わ

 れます。我々としては、そうした点を踏まえた上で、家族をも含めた相互関係を慎重に見直し
                              
 つつ、円満な付き合いの輪を無理なく拡げたいものであります。

 

オノズの道

幸 彦

                      
私 の 先 生
                           
 小学校や中学校の同窓会に出かけ、幾つになってもそれぞれの年代の喜びを楽しんでいる人を見ます。

 筆者には幼稚園、小学校を含め、中学校までの同窓会がなく、いつもうらやましく思っています。

 中学校までの先生には子どもながらにハッとするような、人生の真理とでもいうような感性や考え方を

頂いた方が何人か思い浮かびます。

 今から考えると当たりと思えることでも、そこが分からないと今の考え方がない、というような基礎にあたる

部分です。

 また子ども同士の付き合いの中にも、その場では必死の競争の体験や友人との会話から得た貴重なもの

があることでしょう。

 そうしたことを振り返り、その場の雰囲気を思い出し語り合いながら、同窓会でそれぞれの得たものを分か

ち合う、というのは素晴らしいことですね。

恩師

 学校時代の先生方には、知識や物の見方については元より、物事の考え方やどう生きるべきかについて、

目から鱗が落ちるような思いとともに学んだ恩師ともいうべき人がいます。

 先生といわれる方に向かって、私たちはいつも何かを伝えようとしている人と受け止め、知識や考え方を学ね

ばと思ってしまいます。

 同窓会でこちらの気をつけの姿勢を見て、

「もう、そうではないのだよ」と言われる先生に対しても、自然と姿勢が改まってしまうのは、筆者の頭が固い

のでしょうか。

 そう言われてみれば先生にしても、昔の生徒に何時までも直立不動で何かを頂こうと身構えられては大変で、

付き合いきれないという方もいるでしょう。 

それでも幼い私たちの育ちを促し支え、ある時は大きな啓示を与えて下さった印象深い存在です。

先輩・同輩・後輩

 社会に出ると職場や諸団体に先輩がいて、仕事や人間関係を始めいろいろと教えてくれます。

 いわゆる先生のように、善意をもって良いことばかりを教えるものだとは限りませんが、成功と失敗を含めて

社会勉強をさせてもらえます。

 同輩もより良い自分を目指す意味で刺激を与え合い、それぞれの知恵や学んだものを分かち合う喜びを共有

することが出来ます。

 先輩や同輩からは、とても大量の情報が入ってきます。

先生は不要?

 筆者は自分の先生ということについて、四十歳も半ばになりましたからもう要らないのかな、と考えたことが

あります。

 いわゆる恩師や先輩や同輩からいろんなことを学んだので、もうこれ以上学ぶ物はあまりないのかな、と考

考え方は間違っているのでしょうか。

 新しいことに挑戦することは、失敗を考えると不安であり、ましてや自分より目下の人から習うなどは恥ずか

しく面倒に思いがちです。

 もうこのままで良い、とつい考えてしまうものです。

 息を止めて目をつぶり、耳を閉ざすようにして、子どもや後輩に教えたり、祈願の祭りを終えてしまうことがあります。

 とにかく教え終えるだけ、お祭りをし終えることに集中して、子どもや願い主との面倒な話をなるべく避けようと

いう態度です。

 自分の仕事の目的を、教えたりお祭りをするだけと思ってしまうのです。

 しかし、本当の目的は教えることで分かる喜びを分かち合い、お祭りをすることで神に近付く安心の喜びを分かち

合うことだと思いませんか。

指針の先生・日々の先生

 いわゆる恩師は、今の生活に必要な知識や物事の考え方という、人生の基礎を与える先生です。

 自分で人生を考える基礎を教える指針の先生、といえます。

 これに比べ、例えば自分の子どもや学校の教え子、また後輩に教えるつもりで、返って学ぶことがよくあります。

 本教にお参りにきた人を救うつもりで、返って自分の心を磨かれることがよくあります。

 子どもや後輩に教えるときに、その反応を確かめたり、質問を丁寧に聞きながら伝えると、その会話の中で伝え

る時の技術のみでなく、その伝えるものの中の気が付いていない本質に気付くことがあります。

 教えたり救おうとする中で学んだり、磨かれる自分に気付くか否かで、自分の心が成長するか、老化していくか

の分かれ目が続いているように思います。

 そう考えると、学校や教団は元より仕事場や家庭の中で、目と耳と心を開く気持ちになりさえすれば、年を

幾つとっても学べることはたくさんあります。

 そうなると、子どもや信者さんや後輩は、私たちの日々の先生ということができます。

 毎日を漫然と過ごす癖がついてしまうと、自分の周りの先生に気付かなくなり、気が付けば体も心も老化します。

 神様に近付くということは、老化・死に近付くことではなく、少なくとも心が若返り成長し、そうなれば体も若返り健康

になるのです。

 神の力を戴き、身近な先生を見失わないように、共に成長し続けましょう。

               

  

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