自然の道

                         幸 彦

弁護士との話

最近筆者の応援する野球やサッカーのチームが連敗し、新聞を開くのにエネルギーを費します。

なにか明るい話題はないかと空を仰げば、梅雨入りにもかかわらず現在天気は晴朗で、その下では子どもが元気に遊んでいます。

無垢な子どもの元気を見ることを活力に、大きく息を吸い込んで、現代の世相に潜り込んでみたいと思います。

警察の不祥事や凶悪な少年犯罪が続き、森首相の『神の国』発言等、世相は話題にこと欠かないようですが、気持ちの良い事件ではありません。

『現首相にもう少し故小渕首相の人徳のようなものがあれば、このような問題にならなかったのに』と聞きますが、なるほどこれも捨てがたい話に思えます。 警察や少年の事件も、人間性に共通する原因があるように感じるのです。

最近筆者の長男が比較的軽い?恐喝に遭い、犯人はすぐ捕まったものの、決して軽くない原因を感じ、問題点を見出だし体験したことをお話ししたいと思います。

モノレールの中で目が合ったことが原因で、近所を二時間ほど引き回された揚げ句に、たまたま持っていた数千円を取られました。

引き回される二時間の間、卑猥な言葉や意味不明の行動があった為、変質者であろうと思われたところが、普段は優しい普通の大学生であったのです。

この辺の状況も、よくある事件と共通点がありますね。

子どもの前でビデオの新規会員に免許証を使って入会したことから、即日逮捕となりました。

比較的軽い恐喝とはいうものの、子どもにとってはとても嫌な体験をし、警察の事情聴取でまたそれを繰り返すという、災難に遭ったわけです。

後で加害者の両親と話してみると、そうした精神状態になり、そうした行動を起こす不運が重なったようで、同情すべきところもあります。

しかし、まかり間違えば、もっと重大な事件に発展しかねない要素も含まれていたようで、肌寒い思いがします。

被害者の筆者の子どもとしては、そうならなかったことが不幸中の幸いで、

神と先祖に感謝申し上げるところです。

とはいえこの事件を通じて、警察や検察庁の組織の動き、また弁護士の思惑や、そこで働く人の親切と不親切、熱意と怠惰、誠実さと不誠実さなど、その息遣いを身近に感じることが出来ました。

例えば、警察はポケットマネーでジュースを買って下さり、加害者を見つけるところまでの努力は素晴らしいものの、加害者と被害者双方の両親が会わせててほしいという願いを、結果的には無視されてしまいました。

時間がないという言葉を何回か聞くに及び、被害者の安心より早く事件を成立させたいという思いを優先させたのかな、と推測するところです。

検察庁についても、起訴までの聞き取りなど丁寧にするものの、後の日程や情報は分かり次第連絡します、と言いながら決定して十日も後に加害者の親から聞いて、電話するまで教えてくれません。

テレビで被害者の家族が、被害者の知る権利について訴える気持ちがよく分かりました。

弁護士(加害者側の)については通り一遍の示談書を加害者の親に持ってこさせ、内容についての変更(再発防止の為)を申し出ると、

「今まで、この示談書で意義の申し立てる被害者は一人もいませんでしたよ」と被害者の親である筆者を怒り付ける始末です。

『示談金を払ってやるのに何の異議があるのか、金額が足りないというのなら裁判で争うぞ』という態度のようです。そこで筆者が

「先生のお子さんやお孫さんがこうした被害に遭ったら、どう感じますか?

被害者やその親の気持ちになって考えてみて下さい。

被害者もそれぞれ個性があるのですから、示談書もそれに相応して当然でしょう。私たちが示談金を受け取らないと言っているのは、

1再犯・復讐の防止。

2加害者が心から反省して、その両親をも安心させ、社会に役立つことで罪 を償う、という気持ちになって貰いたい。ことをしっかり理解して頂きたいからなのです」と伝えると、突然態度が一変して、

「いや、お恥ずかしい。私は長い間弁護士をしておりましたが被害者のそうした気持ちを考えておりませんでした。

77才の私が、45才のあなたにそれを教えて頂きました」等と言います。

こちらが最初から示談金を受け取らないと言ったのが、実はもっと大きな示談金を狙っていたと、勘ぐっていたようです。

筆者は、えらく理解の速い人だな、とにかく分かって貰って良かったと喜んでいたのですが、実はそうではありませんでした。

示談書の字句の話し合いを加害者の親任せにしていて、何を勘違いしたのか、「あなたの言う通りにしているのに、なにが気に入らないのですか?

大体なぜ示談金を受け取らないのですか」と、電話で筆者を責めるのでした。 これでは堂々巡りです。

言葉の端々に、被害者などは飴(示談金の増減)と鞭(専門家が優位の裁判)で方が付くのだという偏見と、裁判を主宰する自分達はそうではない(住む世界が違う)が、という差別意識をも感じます。

今回の事件の一番の被害者は毎日拘置所通いをする加害者の母親と思えるのですが、その母親にも会おうともせず電話で一方的に怒るだけのようです。

判子さえ取れれば仕事は終わりで、その為には重いはずの弁護士の『済みません』の言葉を簡単に使ってしまうことに、とても不誠実さを感じました。

一人二人の不用意な言葉が、警察・司法界全体の不審に繋がってゆくことに残念さを覚えました。

ちゃんとした謝罪の出来る両親と普段は優秀で優しく反省の能力もある加害者本人から、何故このような事件が起こるのか?

ほんの弾みで筆者も加害者の席に座る恐怖を感じながら、本教の宗教団体として命の尊さ、心の安らぎの大切さを指し示す役割を痛感したことでした。

平成12年7月号 第1037号  2000−7