自然の道

                                                                        幸 彦

                                   御教祖の交際



本院では毎月十六日午後四時から、教祖殿で教祖祭が執り行なわれます。

午後四時からになったのは平成三年七月からで、それ以前は午後八時から行われ、『通夜祭』などとも言っていました。

夜を徹して教祖殿に『お籠り』(教祖神と共に過ごし、心を通わせる)をされる、熱心な方もおられたようです。

筆者は幼少の頃、この時にお菓子がもらえるのが嬉しいのと、近くの人がたくさん来られ子どもも集まるのがとても楽し
みでした。

お祭りの後、御教戒・本教大意と続き、説教の時間が終わるのが待ち遠しいものでした。

今は例えば三月など、徳力山の竹の子を職員が掘ってお供えしたものを分けたりして、大人が楽しみなようです。

月に一回顔見知りが集まり、元気な姿を確かめ合う、社交の場でもあったようです。

子どもの数が減り大人のお参りも少なくなるという時代の変遷で、全体にお参りしやすいということで、今の時間に変わ
りました。

昔の良いものを引き継ぎながら、皆が神様の前で笑顔で話し合える場が大切と言えます。

二月は教祖生誕祭を兼ねて十一時から、四・十月の春秋大祭は撤饌式終了後に、また五月は教祖祭に引き続き、身明祈願
祭が執り行なわれます。

身明祈願祭の歴史も新しく、平成四年からとなっています。

御教祖生前の辛苦は筆舌に尽くしがたいものですが、これを世の為に役立つ喜びとされ、且つまた帰幽(亡くなること)
後九十年を過ぎてなお、こうしてお祭りが続く事は、その御神徳をなお輝かせるものとなります。

御遺徳が忍ばれると共に、ますます強く私たちをお守り下さるのだと信じます。

前置きが長くなってしまいましたが、御教祖生前の周辺を考えさせられるのが、今も御教祖と同時代を過ごした方の子孫
が訪ねてこられる事です。

ある人は、

「自分の四代前の先祖は神社の神主で、教祖の友人であったと家に言い伝えられていますが、どういう関係であったのか教
えて下さい」
といって来られます。 またある人は、

「自分の五代前の先祖は小倉で商いをしていて、友人であった関係で教祖の書物を貰ったのだが、これを買い取って頂けま
せんか?」
といって来られます。

御教祖には、なんとまあ友人という人がたくさんいた事か、と思います。

『神理教の人には神格化された御教祖でしょうが、私の祖先は何の世話にもなっていない対等の友人であった』という風に
言われると不覚にも、

「この人達は、何か勘違いをしているのでは?」と思ったものでした。

しかし、考えてみると誰にもプライド(誇り)はあるものですし、その子孫達は今では本教とは離れた存在です。

また、今の教信徒の家にも御教祖の友人であったという言い伝えは、少ないけれど聞くことがあります。

そこで思い至った事は、多分御教祖自身は出来得る限りの人と、本当に友人としての気持ちを持ってつきあっていたので
はないか、という事です。

そして、本教から離れた家には御教祖と友人で対等であった、という言い伝えが、誇りと共に残ったのかもしれません。

また、本教の教信徒の家には先祖は御教祖と友人付き合いをしたかもしれないものの、その先祖や子孫に敬意が先行した
為に、友人という感覚が薄れてきたのかもしれません。

どちらにしても、御教祖生前の周囲の人達には、敬意のみではなく教祖への親しみが強かったように推察します。

これは今の社会の上下関係についても、考えさせられるように思います。

御教祖の交際の仕方は、地位や知識の上下に関わらず、屈託のない友人として付き合う事を教えて下さっているようです。

敬意とか対等とかへりくだるなどの心の持ち方は、決して他人から強制される事ではなく、各自の責任の範囲内なのです
から。

“地上に降り損ねた神様”というのは、今まで社会的な地位が高く神様のような存在であった人が、

『今から自分より格下の者と付き合ってあげよう』として降りていったつもりが、自分が格下・目下と思っていた人達から
軽蔑されたりする事を言います。

始めから偉い人はいないし、少しばかりの学識や経験は人間性とは別物で、返って勘違いの元となるようです。

御教祖の交際の仕方(あくまで筆者の推察ですが)から学ばれるのは、

『一生懸命に人を大切にして付き合う人が、自らを育て段々に人から尊敬される事もあるのであって、対等を恥じるべきで
はない』
ではないでしょうか?

偉くなる為に競争するものではなく、世の為・人の為に役立とうとする心持ちが自然と自らを育てる事になるのです。

たくさんの友人を作り、共に学び育つ事が、教会や教団また自分の所属する社会の活性化に繋がると言えます。

御教祖が友人付き合いをされたといって決して不快に思うことはなく、私たちにもそうするように、と教えられているの
です。

今社会問題になっている教団のように、脅したり強制して信者を増やすのではなく、自らの気付きを促す環境作りの在り
方がここに隠されているようです。

平成12年6月号 2000−6 第1036号