自然の道

                         幸 彦

他宗教者との対話 JS宗O派・H寺(仏教)

死後の在り方

 先月までお坊さんとの話を通して、神道批判についての反論や塩の話をしましたが、それとは別にこの仏教の宗派の教えについて聞いてみました。

 真宗教団では、この通称“東本願寺”と“西本願寺”が京都に本山を持つ最大級の宗派で、東は東日本・西は西日本に所属するお寺が多いようです。

 調べてみると、開祖の子孫で八代目が15世紀の後半に大発展させ、大阪にを建てる、とあります。

 このお寺を本拠地とするが織田信長と対立する中に、十一代門主のが主戦派であったので後継を認められず、が後継することになったのが今の西本願寺だそうです。

 後にに同情した徳川家康が寺を作って与えたものが、今の東本願寺となったということです。

 末っ子の系統のお寺が元で、長男の系統のお寺が分派、ということになるようです。

 教義的に大きな違いはないようですが、解釈や作法に相違があるようです。

坊「死ねば祖先になると言っても、誰も見た人はいないじゃないですか。

  見えもしない、また見たこともない祖先をするなんておかしなことだ、 と私たちは思っています」

 な筆者は、先月までの話で一応の満足をして少しれていたのと、何を言い出すのか興味もあって、反論もせずに聞いていました。

 ただ、のある六十歳位に見えるお寺の住職がそんな話をするものですから、驚きました。

 話しれた言い回しを聞いていると、これは多分この宗派の人は皆それを信じて、『そうだ、そうだ』と確認し合っているのだろうと感じました。

 そして、筆者は次のように考えました。

 その一つ、見た人はいないと言うのならば、この人達の言うというものは、誰が見たのだろう?

 その二つ、祖先を崇拝するなんておかしなことと言うのならば、この人達が毎月家を回ってあげるお経は、誰のためなのだろう?

 おまけ、目に見えないものは信じない宗教者をするこの人達は、一体何者なのだろう?

 そこで質問をしてみました。

筆「では人は死ねばどんな働きをするのですか?」

坊「人は死ねば、自分達の子孫だけというい考え方はせず、全てのものを守 ろうとするのです」

 見てないものは信じない、と言いながらなぜ分かるのかな、と思いながら、筆「なるほど仏教では子どもでもぎはとしてと聞いていますが、 もしくなられたら、自分の子孫を特別大切に思いませんか?」坊「?…。それは、自分の子孫は他人に比べると…、特別の感情を持ちます」

筆者は以前(平成九年八月)ここで御紹介したことのある、アメリカのナバホインディアンの話をしました。

『今も自然の中で生きるナバホインディアンの子どもと、文化の中で生きる日本やアメリカの子ども達に、自分の絵という題を与えたこと。

 自分の体や顔をく日米の子どもに比べ、インディアンの子どもが自分というより自然全体を描くこと。

 に思った主催者があなたの体は?と聞くと、忘れずに木のそばに小さな点のように表していたこと。

 自分は自然自体、または自然の一部であるという認識を、本来の人間性として人は持っていたのではないか、ということ。

 こうした、自分から家族・社会・自然全体への横の広がりに加え、生きものを創った自然環境・祖先・親・自分・子孫という縦のがりが重なって、円あるいは球となったもの、これを私たちは神と認識すること

 これが、人間本来の信仰ではないかということ。』を話しました。

筆「こうした考えから全体が大切というのは私たちも同じですが、その全体も 私たち個人・個々のものから成り立つという考えも出来ます。

  私たちは宗教家ですから、自分で考えられるだけのものを大切に思うべき であるものの、私たち個人を考えるならば、一番小さな社会の単位は家族で すし、私たちが子どもや子孫を大切に思うことは自然なことです。

  全体を愛するという考えは当然のことながら、この縦の線がその柱となる ことを思うならば、私たちを最も大切にしてくれるのは祖先であり、私たち が最も大切に思うのは子孫である、ということになります」と話すと、坊「そんな考え方は、初めて知りました。よく分かります」と言われるので、筆「神道の死に対する誤解が解けたことを、嬉しく思いますし、私も仏教の考 え方を色々と教えて頂き、有り難いと思います。

  御住職に理解頂けなければ、研究会や上部団体へお話しを、と考えました が、またそうした機会があれば御連絡下さい」と言って帰りました。

 その後、何の連絡もないところを考えると、あのていたように見えたのも“過ぎれば熱さ忘れる”ということかと思います。

“元の”とはこのことなのかも知れません。

 人(私たち)は真実を知っても、自分の生活のためには、真実を忘れようとする生き物のようです。

 これも真実と言えるのでしょうが“の石”として、はいくつになってもいつでも素直になれるよう、頭をらかくしておきたいものです。

平成12年4月号 2000−4 第1034号