自然の道
幸 彦
他宗教者との対話 JS宗O派・H寺(仏教)1
アンケート
昨年の『あとがき』のやはり2月号で、アンケートモニターの募集をしましたが、現在毎月十人ほどのご意見を戴いています。
大変参考になっていることをご報告し、この場を借りて御礼申し上げます。
誠に有り難うございます。
本題に限っても、『悪い』の評価を受けたときには、どこがだろう?などと考えますが、それが良い刺激になっているのだと思います。
一般的に『良い』にならないのは、他教への批判めいた内容となった時に多いように感じます。
とはいえ、自己主張のない教団は目的がないのと同じですし、神道への批判などに反論しようとすればの厳しさも必要です。
良い刺激としてお読み戴ければ幸いです。
日本料理と外国料理
神道と他宗であるキリスト教や仏教とを比べると、日本料理と例えばフランス料理などに代表される外国料理の違いのように私は感じます。
日本料理はを大切にしますし、フランス料理は素材に人の知恵を絞って加工調理され、料理として私はどちらも好きです。
荒っぽい言い方かもしれませんが、神道はこの素材とこれを与えてくれる環境を神と言い、キリスト教や仏教は人の知恵を絞った最高の出来栄えやその誇りを神と言っているようです。
皆様は、どちらを真の神であると考えますか?
キリスト教や仏教の神道への批判は、ここでいう『素材()を信仰するなど原始的な事だ』と言っているのです。
人の知恵という最高の理性によって言い表せるものが神であり、その一神教が最も優れた信仰である、と主張しているようです。
しかし、神道のそののみでなく、素材ができた環境(=自然)と、更に言えば人の知恵もんで神、という事なのです。
人の知恵が進んで、その時点では流行にも乗って、いかに最高のように思われても、その知恵もその元の自然(=神)があってのことと言えます。
では神理教の神道における位置は?、そこまで決まっていれば本教の存在理由はない、ということはありません。
本教は、こうした事を明確に踏まえて、素材(=多神)を天在諸神の一神に帰する、と決定する教えを過去から現在へ伝えるものなのです。
こうしたことを踏まえて、話を進めて行きます。
お坊さんとの対話
昨年友人の父親の通夜にお参りした時に、法事が終わった後お坊さんの講話がありました。
死ねば浄土からお迎えが来るなどの話の後、かなり長い時間を掛けて塩の話をしました。いわく、『神道は死をれとするからそれをおうと塩を使うのだが、それは間違った教えだから、皆さん塩は使わないで下さい』というものでした。
私はいたたまれない気持ちになりました。
反論の出来ない場で、誤解を含む他宗への批判は少なくとも宗教家のするべきことではないと感じたのです。
他宗の教義も知らないものが、その作法をうんぬんするのは要らぬお世話というものです。
最近そういったことを言うお坊さんが多いと聞いて、なにか組織的な意図を感じていましたが、直接聞いたのは初めてのことでした。
私は早速電話をして、「神道ので死をれと見る人もいるようですが、少なくとも私たちはそう思っていませんし、いっしょくたにして反論の出来ない場で決め付けられるのは困ります。
一度ご説明申し上げたいと思いますが、お会い頂けますか?」と話したところ、そのお寺で会うことになりました。
お寺に行くと本堂に通されて礼拝するように言われ、そのあと客間の下座に案内されました。
正面に床の間、右と後ろがふすま、左に廊下と庭が見えます。
正面にお坊さんが座るところをみると、とりあえずは1対1で話に応じるという事のようです。
お茶を頂きながら(以下お坊さんを坊、筆者は筆、とします)
筆「落ち着いた、静かなお寺ですね」
坊「有り難うございます」
筆「私はこの前のお話をお聞きしてとても驚き、悲しく思いました。
お通夜の席上で、講話に異議を申すことも出来ませんでしたのでこうして お邪魔しましたが、私ども神理教は神道の一派で古神道を受け継いでおりま すが、死をれとは考えていないのですよ」
お坊さんは、本院の場所や成り立ちを質問していましたが、神道には違いないと理解したらしく、
坊「神道にも死を汚れとしないと考える人もいるのですか?
知りませんでした」と言うのでした。 つづく
平成12年2月号 第1032号 2000−2