神理

平成12年9月号
       第1039号

ライン45

***** 巻 頭 の言 葉 *****

 我々が今生活出来ているのは先人のお陰であることはいう
までもない。
 しかし、その先人達の姿は見えない。
 我々は、現実に見える周りばかりを意識し、これが全てと思い
こんでいる。

 今ある全ては、見えない先人達が基になっていることを認識
しなければならない。
 今の生活は勿論、これからしようとする行動においても、見えない先人達の念が働いているのであり、支配されていると言っても言いすぎではない。   

ライン45

御教語第九十九節
にんげん れいこん  ふたた にんげん うま
人間の霊魂は再び人間と生まれかわるのではない。
       うま    かは             こころ いれ 
人間の生まれ更るといふのは心を入れかへるのじゃ
     たましい        いで   かみ                  げんせ
人間の魂は神から出て神になるのじゃにより現世に
おい    かみ      しゅぎょう いちばんたいせつ
於いて神になる修行が一番大切である。
またしそん         そのかみさま                おまつり  おこた
又子孫のものは其神様になられるように御祭を怠ら
       おこな    かんよう
ぬように行ふが肝要である。

ライン45

管長   巫部 健彦
す  くに  ちから       ただいま
住む国に 力あればの 只今と
   おも つつしむ とき
   思い慎む 時をともなが

ライン45

オノズの道

幸 彦
                      わ け 

信 仰 を 始 め た 理 由


 7月の終わりに神理未来委員会が開かれました。

 5年間に渡り11回も開かれるようになると、お互いがよく知り合い議論も

活発化し、いわゆる”腹を割った話し合い”が出来るようになります。

 お互いに信頼関係が築き上げられていることから、少々の激論を交わしても

感情的な尾を引くこともなく、次の議論に集中することが出来ます。

 長い試行錯誤を経て熟成した諮問機関に育った感がありますが、ここで満足

するわけには生きません。

 次回は、2月24日・25日に、新たに第4期として開催されるわけですが、新

しい委員も募集しています。

 新たに入られても、新たな視点から見る活躍の場がありますので、奮ってご

参加下さい。
 


 
委員は皆とても熱心な教信徒ばかりですが、その未来委員会の余談で、何

人かがご自分の信仰を始めた話されていました。

 そこで、その当時信仰のなかったその方は奥様予定者?に、

「あなたが信仰を続けることは構わないが、自分には信仰など不要なので、一

切お参りなどしない」と結婚の条件を出したそうです。

 それはそれで結構、ということで結婚をしたのですが、いつの間にか今は熱

心に信仰の必要性を説き、本教の発展を考えるようになられています。

 「何でこうなったのかね?」と、本人自身を不思議そうに振り返るのです。

 まあ、今の状態に満足しているので、無理をして振り返る必要もないという感

じを受けます。

 「なにかの拍子に教会に行ったとき、教会長の人柄にひかれ、教会にいる人

達の暖かい雰囲気、スポーツを通じた交流や懇親を楽しむうちに、神理教の教

師となり、気が付けば毎週日曜日の朝早くから神前奉仕をするようになってい

た」ということのようです。

教会長や教会にいる人柄に触れて、自分もそのような暖かい雰囲気の輪に入

り、そのような人・心持ちになりたい、と感じられたのかなと想像しました。


 もう1人は、教会の長女と結婚されている方ですが、やはり信仰の習慣などな

く、信仰は心の弱い人がするものだと決めていたようです。

 教会のお祭りに付き合うこともあるけれど、なにか理由を設けて抜け出すことも

あったとのことでした。

 こらちらは、教会長の熱意やその教会に参って来られる信者さんの様子を見る

うちに、感じることがあったようです。

 安心の道というのは、自分1人でなせることではなく、家族や先祖の

”安心=霊魂の安定”と繋がっていること、を体験されたのではないかと想像さ

れます。


 
 著者などは、本教に生まれたにも関わらず、思い起こすのも恥ずかしい、もっと

ひどいことを考えていたものでした。

 前の2人の方のように、宗教や信仰は不要なものと考えていた上に、もう1歩

進んだ”親切心?”を起こしていました。

 すなわち傲慢にも、”宗教や信仰の不要・無用を本教の人達に教えてあげよ

う?”と考えていたものです。

 筆者は、本教の皆さんからの浄財で育ったことを自覚・感謝することにはかろ

うじて気付いていましたから、その恩返しに信仰の不要を教えて差し上げようと

思っていたのでした。

 
 その方法も、急に不要と説いても受け入れて貰えないだろうから、「表面的に

は必要を説き、よく考えると宗教や信仰は不要だった」という風にならなければ

いけない、などと小賢しいことを考えていたものです。

 まず、”宗教や信仰は不要である”論拠づくりを始めましたが、頭で考えたこと

を形に直すと、なかなか難しいものです。

 今考えると、本教の教義もほとんど知らずに、結構考えたつもりでしたが、どう

にも足が地に付いた文章にならなかったのを覚えています。

 そのうち僅かながら本教の教えを学び、その素晴らしい本教の存続を考える時

に、ものの見事に以前の幼い思想は雨散霧消したのでした。
  
 例えば、私たちは親という目に見える、またその安心・安定の大切さに気付い

た時、これが信仰だということが、おぼろげながら分かったのでした。


 
 今の時代は、”気がつけば信仰がない”という人は多いようですが、それ自体

は決して恥ずかしいことではなく”今から”が大切なのです。

 そこで居直って信仰のないことを自慢するとか、信仰について既にしているいろ

んな人と話して真摯に考えてみるとか、の違いがこれからの自分を作るのだと言

えます。 

 筆者が信仰に目覚めて幸せに思ったのは、本教で良かったと言うことです。

 多分最初の2人の方も、信仰に目覚めた時に本教であったことで、教えの確か

さを、改めて噛み締められたのではないかと思います。

 
 こうして信仰の理由をご紹介したものの、お2人方の話しを筆者が聞き違えた

部分もあると思いますし、詳しくは本人の話をお聞きしたいものと思います。

 ここでご紹介した以外の方にも、それこそ十人十色の”信仰の理由”があること

でしょう。*****是非お聞きしたく、FAXでもメールでもお待ちします。*****

戻る