自然の道


                                           幸  彦

                 布教の進め方(いつでも・どこでも・誰でも出来る)

神理教の存在意義と将来の在り方に関わる大切な問題ですので、後でご意見ご感想など頂ければ有り難く思います。

各地のブロック研修会に伺いながら、本教を学んでみようとする方に、

『何をお伝えするのが、喜んでもらえるのだろう』また

『どのような研修の形式が、満足し生活の糧となるのだろう』また

『どのような内容が受講者の意識を目覚めさせ、膨大な御教祖の教えのどの部分をどう使わせて頂くのが、効果的なのだろう』と、いつも考えています。

ブロック研修会には“教会長から誘われたり、親からやかましく言われたから来てみた”という方から“信仰に渇望している、また普段から本教を信奉しもっと深めたい”という方まで多様です。

ブロック研修会では、いわゆる入門的なところからの話が多いのですが、それでは次にもう一歩進み、教会などで教えを深める方法はないのでしょうか。

本院から伺う講師では出来ない、現場の教師・教会長でこそ継続出来る、信仰を深め自己啓発を行う方法はないのでしょうか。

日常的に身近な教会で“いつでも・どこでも・誰でも出来る布教活動”という手立てはないのでしょうか。

私たちは普段の活動として、街頭説教や家庭訪問を行うことなどなく、ましてや他教団へ乗り込んでの論争など、することはありません。

明治の中頃にはそうしたこともあったようですが、時代の風潮もあり現代はほとんどない、といってよいでしょう。

本教には『来る者は拒まず、去る者は追わず』という気風があります。

しかしこれは、清々しく感じられるものの、同時に新しくこられる方には冷たく感じられる、こともあるようです。

遠慮が先に立つ余り声が掛けられないという、現代人の複雑な心境が人間付き合いを下手にしてしまったのでしょうか。

力強く、人懐っこく、自分の思いを伝えられるようになりたいものです。

そのために、普段から何を学んでおくのが、自らを高め磨くことになるのでしょうか。

研修会で“神理教とは?”とお話しする中で、“(神理教の教信徒は)普段は何をしていますか?”と自問して貰うことにし、お聞きしてみました。

ある教会の教師の皆さんは、毎週日曜日に8時から朝拝をしていて、早い人は6時過ぎから教会に来て、神前の掃除をされるのだそうです。

週休2日が多くなったとは言え、毎週日曜の朝8時からもそうですが、午前6時過ぎからの神前奉仕とは見上げた心掛けです。

午前9時頃に祭りを終えた後、普段はお茶を頂いて解散し、月に一度は講話会を行っているということです。

それでは教師ではない教信徒、また教師であっても普段から祭事などに携わることの少ない人は、どうあるべきなのでしょうか。

私たち本院から出向いての話は、先程も入門からと言いましたが、それに加え、いわゆる際物的な話に傾きがちです。

いつも話している相手ではなく、一年あるいは数年に一回位しか合わない人を対象に話すことが多いので、どうしても話題に引きつけることに主眼をおいてしまいがちです。

体験等、いわゆる“血沸き肉踊る”ような話は、本院ならではの情報や、これもいわゆる御神威をいつも目に見せるような先生にしか出来ることではありません。

そうした話は講師の個性が前面に出ますので、その場にいなかった人に語り継ぐのが、難しいものもあります。

また、そうした体験を日々繰り返すことは難しいことですし、日々続いたからといって、人の刺激に対する感覚はすぐに緩く鈍くなるもので、長続きするものではありません。

信仰への程良い緊張を保て、学び続ける秘訣はないものでしょうか。

その解答は、“人間として求めるもの=本教の目的”について考えてみると、見出だされてくるように感じます。

“人間として求めるもの=本教の目的”は安心、すなわち平常心の確立であり、本教流に言えば“(自分と祖先の)霊魂の安定”です。

その方法はなにかというと、祭りや伺い事などの神事と普段の心掛け、ということになります。

筆者は、この中の“普段の心掛け”に視点を置いて考えてみました。

“普段の心掛け”を高めてゆくにはどうするか。

それは、せっかく御教祖が残された教書やその解説書を一緒に読み、!教師と信者が理解を共有すること!ではないでしょうか。

本教にしか出来ない方法でありながら、意外に誰にでも出来ることなのです。

例えば、東北のある教会の先生などは、御教祖の著書の直訳は難しいからと、『あかりもち』や『神理の声(人体本言考)』を使っておられるようです。

筆者も、継続して行われる出張講習会などでは、同じように教書を平易に手直ししたものを持って行って一緒に読み合わせをします。

しかし、ごく最近まで“灯台元暗し”、で自分で行っておきながら、この方法の素晴らしさに気付いていませんでした。

筆者の方法は、前もってゆっくり読んでその項目についての、気付いたことや体験があれば書き留めておきます。

そして読み合わせ(順番で読んだり一緒に読む)をした後、区切りくぎりで筆者の話を加えるし、一緒にいる人の気付きや体験があれば話して頂きます。

この方法は、一緒にいる人を飽きさせないとともに、例えば人体本言考に精通するなど、同時に自分の資質をも高めることに気付かされたことでした。

ブロック研修などで、本教とは何かを知ることは比較的短時間で出来るものの、さらにそれを深めるために教会での日常の時間が大切です。

誰にでも出来ながら、回りの人と自分をどこまでも高めてゆくこの方法を、是非試してみて下さい。

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神理

平成12年8月号  2000−8     第1038号  

ライン45

***** 巻 頭 の言 葉 *****

信仰は、自分の姿を正し、自分の家を正しくするものである。
正しくは、順調に真っ直ぐ進むことであるが、誰も、との家も、
その様に進むのは、至難の業と言えよう。
曲がったり折れたりする事、すなわち病気や災難には必ず遭
うといっても言い過ぎではない。

病気や災難は、自分の家を直そうとされる神様の計らいであり
それに早く気付くことが上根の信仰と言える。
    

ライン45

御教語
こんにちいちじつは いちじつ  おかげ
今日一日は、一日の御陰である。
ただいま  いま        おかげ         こころえ 
只今の今は、今の御陰であると心得て、
あら     きもち     しんおん おも   だ  
新たな気持ちで神恩を思ひ出さねばならぬ。

ライン45

 うぶすね        まもり              ただいま 
産須根の  護あればの  只今と
おも  つつし      とき
思ひ慎む  時をともなが

管長
かんなぎべ  たけひこ
巫部   健彦

 生きているという事は、その人には父母がいる!と言うことになります。

又、その人に父母がいるということは、その人には祖父母がいる!という事に

なります。さらに逆上れば、先祖と称される御存在に至り付かざるを得ない!と

いう事になる訳であります

 即ち、先祖は我々を産みなす根=産須根=と受け止め、その御先祖の御霊を

『産須根の神』と
称え、その御霊が安らかに鎮まります事により、御遺徳が高ま

り御守護も大きくなるものと信じ
、御守護に感謝しつつご冥福を祈念するのが、

本教の信仰姿勢であります。

 従って、子孫の栄枯盛衰は、先祖の遺徳が高まるか?弱まるか?に左右され

かねぬ点も考えられますが、そうした成り行きの中で、我々が生きて育って只今

を生き得ているのは、先祖の遺徳が『守護』という力添えをしている故のこと!と

申せそうであります。

 しかしながら、目先のことに関心が傾きがちな時代風潮の中では、自分の生前

や死後を考える場合でも、その視界は凡そ我が親・我が子の範囲内にとどまり、

視野ひろく先祖や子孫にまで思い及ぶ人は、減少の一途を辿り続けている様に

見受けられます。

人間として、生き甲斐を感じながら生き抜くことが肝要なのは、申すまでもない所

でありますが、その生き方が結果的に先祖の遺徳を損なうものである場合には、

その生き甲斐なるもの自体が手前勝手な思い込みに過ぎぬ、ということに成りか

ねぬ様であります。

 つまりは、人として有るべき生き方から外れている!ということに成りかぬね訳

であり、従って子育てに不具合が生じ、社会環境の劣悪化を招き、止めどなく奇

異な犯罪が浮かび上がる底流になつている!とも言えるのではありますまいか。

 今月は、多くの人々の思いが、平素は忘れがちな故郷や霊祭に繋がる月であ

ります。改めて我が親・我が先祖の遺徳と自分との関係や、自分の行跡と我が

子・我が子孫との関連にも思い及ぶ中で、先祖の遺徳により先ずは健康な心身

を得ている点への感謝を忘れることなく、心掛けて先祖を遺徳を損なうことのな

い人生を目指したいものであります。