神理

平成12年11月号
       第1041号

ライン45

       ***** 巻 頭 の言 葉 *****

 古代から伝わる「太占」は、神意を伺う為に行われているが、

その一種として「おみくじ」がある。

 おみくじの結果で一喜一憂する必用はない。

吉を引いたら喜べばいいし、凶の時は自身の行動や考え方を

省みれば良いのである。

 「人生は自分の一心にあり」の言葉通り、自分がとうとらえるか

によって善し悪しへ別れるのである。

 「吉事は喜び楽しみ、不都合は自分を磨く砥石」である。
ライン45

管長
かんなぎべ  たけひこ
巫部   健彦
           たすけ        ただいま
世の人の 助けあればの 只今と
おも  つつし  とき  
思ひ慎む 時をともながな

 開教壱百弐拾年を記念する秋季大祭は、記念事業としての神理会館が見事に竣工し、これを

祝賀する諸行事も賑わしく催され、先ずは諸事つつがなく盛大裡に終わることとなりました。御

教祖を始め先人の方々の御霊も、聊かは和まれたことかと拝察している所であります。

 尤も、大祭が賑わしく盛大に執り行われるのは、参拝奉仕する銘々にとっても心うれしい事

でありますし、勇気づけられるようなものも感じさせられた次第でありますが、これは自分が

努力した事と共に、自分以外の参拝奉仕者が居たればこその事と考えさせられます。

 逆の立場からは、自分が参拝奉仕したので、不特定多数の人々に、心うれしい思いや勇気づ

けられるような感じを与えた、とも申せそうでありますが、いずれにしても、自分以外の人々

との間で、思いがけず助け合う状態が生じた、という事にはなる訳であります。

 一般的に、助け助けられるという場合、その相手として認識するのは特定の人に限られると

いうことになりますし、特に助けられたという意識は強く持ち続けられねばなりませんが、そ

れにしても、助けられている事に気付かぬ場面も少なくはないと申せそうであります。

 人間の関心は、利害関係が即物的で密接な相手に傾きがちかと思われますし、そうした点か

らも、関係が密接でなくなるほど、その人への関心が薄らぐという事になりますし、従って何

らかの形で世話になっている点にも、気付かぬという事になるようであります。
 
 我が国には、頭をさげて『お辞儀』をする習慣が伝わっています。それは外国で見られる握

手や抱擁とは異なり、相手に敬意を表する謙譲な姿勢であり、何かとお世話になりますという

様な言葉は添えられる場合も少なくはない、ということであります。

 視野を拡げて考えれば、廻り廻って世話をかけぬ人はいないと言う事にもなりそうでありま

すし、そうした受け止め方で『お辞儀』をすることができれば、人間関係も円滑となるに相違

ないと思われます。お互いとしては、努めて『お辞儀』に心がける中で、少しでも和やかに暮

らしやすい生活環境を作り上げるよう、助け合いたいものであります。

オノズの道

幸 彦
                      

家族の会話を楽しんでいますか?


この数年来、凶悪で悲惨な事件が増え、その時は衝撃的でも数が多すぎて日が経つとすぐに忘

れられてしまうものもあります。

 子供や大人・男女など年齢・性別、また犯行に至る状況や経緯など衝動的・計画的、の種類の

違いはありますが、一様に計画的であっても幼稚さが感じられ、自分中心のわがままな犯行が

多いようです。

 『春菜ちゃん事件』を覚えておられますか?

 筆者は最近、佐木隆三という直木賞作家の講演会、”法廷の中の人間模様”の話を聞いてこの

事件を思い出しました。

 この作家は『死刑囚 永山則夫』など、現実の事件に基づいた犯罪小説を手掛ける社会派作家

ということです。


 『春菜ちゃん事件』は、三十五才の母親が同じ年の幼児を持つ知り合いの女性を憎み、その子

どもを公園で殺害して自転車で運んで捨ててしまったというものでした。

 犯人の言葉で、その原因を『心の葛藤』とする新聞の活字が筆者の目に焼き付いていますが、

幼児の受験や主人の職業に伴う差別意識や劣等感が複雑に作用してこの事件が起きたようで

す。

 決して普段から異常な人間ではなく、学生時代に病気で入院したときに看護婦の対応に感動し

自分も看護婦となったとのことです。

 能力や優しさなど周囲の評価は高いものの、入院患者の死を見て看護婦をやめるなど、心の弱

い部分もあったようです。

 自分の子供の評価について全て最低点を与え、理由を聞くと泣き出すというような不安定な状

態になることもあったとのことです。

 とはいえ、このような誰もが抱える不安定を持ちながらも、年齢的にも分別のつく普通の日本の

女性が、なぜこのような突拍子もなく残虐な犯行に及ぶことになったのでしょうか?

都会という、人間が多いばかりに人間性が失われる特殊性や、幼児体験など、原因はいろいろと

考えられますが、それでもこの事件を引き止めることは出来なかったのでしょうか?

 こうすればこの事件は起こらなかったのに、と言う幾つもの垣根を越えて最悪の結幕を迎えた

ように思います。

 考えられないような悲惨な事件でありながら、身近に起こっても不思議でない恐ろしさを筆者は

感じます。


 それは、例えば次の話を聞いたときです。

 事件の真相が分からない時に、犯人の女性が自分の母に犯行を告白するのですが最初は信じ

てもらえません。

 二度目に電話で話した時にようやく理解され、母親は犯人の女性の主人の勤め先に電話をし

ます。

 そこで始めて夫は、思いもよらぬ妻の犯行を知るわけです。

 お寺の副住職である夫は温厚な性格らしく、妻の話を聞き犯行を確かめると強く責めることもな

く、次の日に自首することを勧めます。

 その夜はまんじりともせず、自分達の子供の寝顔を見つめ、普段忙しくて話す暇もなかったこと

を振り返りながら会話を交わしたようです。

 翌日の自首の日、二人は午前九時に家を出て警察に向かいますが、話は尽きません。

 食べ物を買って公園で話し込み、警察に出頭したのが午後三時だったといいます。

 最後に交わした言葉が

 「こんな二人でしみじみと話したのは、結婚以来初めてだね」ということだったようです。

 何と寂しい、また私たちの身近というか私たちの家庭にも、気が付けばありがちの話しではな

いでしょうか。

 私たちの家庭は大丈夫でしょうか?

 気が付けば何日も会話がなかった、ということはないでしょうか?

 会話という本来楽しいはずのものが、忙しい毎日の中で煩わしいものとなっているのは、家と人

の心の病の始まりですね。

 犯人である妻が犯行の前に、

 「私、なにか事件を起こしそう」と夫に言ったという話も、そう言えば新聞紙上をにぎわしたもの

でした。

 少年犯罪にも、

 「何か大きなことをしたい」という言葉が見掛けられますが、大きなことといっても、人殺しや有

名になりたいばかりの無意味で不耗な事件を起こすことが多いようです。

 自分を主張したり誇示することは人間の本能ですから、決して悪いことではありませんが、神が

人に誇示をしたい感情を与えたのは、それなりの意味があることなのです。

 本教大意にあるように、『・・・世のため人のため善事をなす・・・』として、自分を世に出すのが

本来の在り方です。

 裁判で夫が、

 「妻の言葉は聞いていたが、心の言葉を聞いていなかった」と言ったのが印象的でした。


 ところで私たちは、家庭での会話もさることながら、神・祖先との会話を交わしていますでしょう

か?

 私たち神理教の教信徒は、家庭の中でのみ助け合っているのではなく、懸命に生きることで御

先祖に喜ばれ、御先祖のお守りを頂くことを知っています。 

 家庭や社会での会話を楽しみ、毎日御霊前に向かって日々の守りの願いと感謝を捧げることで

、より確固とした幸せを頂くことができるのです。

 家族や社会に加え、神・祖先とのつながりを保つことから、現代の私たちが落ち込むことがある

最悪の事態から救われることができるといえます。

 
 

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