自然の道
幸 彦
子どもに潰してあげられるもの
皆さんは、子どもや子孫に遺してあげられるものは何かな、と考えられることはありませんか?
お金・土地建物などの“物”、優しさや喜び・強さや忍耐・五感や心地好さなどの“情緒”、家業の技術や社会生活の仕方・心構えなどの“生活の知恵”、他にもいろいろ考えられます。
それこれと思い浮かべるうちに、子供の頃読んだ童話を思い出しました。
童話(父の遺したもの)
昔、ヨーロッパの貧しい農家に三人の息子がおりました。
三人の息子たちは普段から仲が悪く、働くことよりも父親が持っている家やわずかな畑を少しでも多く手に入れようと争っていました。
父親は体が弱っていよいよのときに、息子たちを呼んで話しました。
「私は、長年ためた蓄えを宝物に替えて畑に埋めた。
掘り出した者にあげるから、探すがよい」と言って死んでしまいました。
息子たちは、父親の葬式もそこそこに、毎日畑を掘り起こすのでした。
いくら掘っても宝物は出ず、だまされたと思った息子たちは、ふてくされて怒るばかりでした。
秋になりました。
掘り返した畑には、作物が豊かに実りました。
父親は息子たちに知らせずに、畑に種をまいていたのです。
そこを息子たちが一生懸命に掘り返したものですから、そうした素晴らしい実りを得られたのでした。
息子たちは、それを売って収入を得ることができました。
このことを通じて、父親の心・労働の喜び・兄弟の大切さ、を学んだ息子たちは力を合わせて働くようになった、という話です。
父親の言った宝物とは、兄弟で力を合わせ一生懸命に働くことを自分で気付くことだったのです。
遺してあげられるもの・向上の喜び
私たちが思い付く子どもや子孫に遺してあげられるものは、つい“物”になってしまいがちです。
目先の仕事に追われる忙しい私たち現代人には、“情緒”や“生活の知恵”などを伝えるのは苦手になっているようです。
お金や物で手っ取り早く片を付けよう、ということになりがちです。
家業(家として先祖から受け継いできた仕事・農業や商売)という言葉もありその存続の為にはある程度の財産を、という考え方もありますが真に必要なものは家業と自分自身の向上という目的意識です。
家業や企業や教団において大きな目的に向かい、場合によっては血筋を問わず代をつなげて前進してゆくために財産が積み上がることもありますが、その活動の根幹はやはり財産よりも行動の内容です。
『子孫に美田を残さず』という言葉があります。
働く為の素地としての田は子孫に残しても、それを完全な田としておく必要はなく、美田に育て上げる楽しみは子孫のために残してあげる位の心構えが良
い、ということのようです。
なまじの財産は子孫の向上心をそいでしまうので、返って浅ましくも物悲しい発展性のない争いの元になることもあります。
人として専有できる少しばかりの財産を争って心を汚すより、現代では数の少なくなった兄弟や家族で共有する豊かな心の方がお金には替えられない価値があると思いませんか。
『起きて半畳、寝て一畳』といいますが、どんなお金持ちでも自分の専有する場所は限られ、贅沢な物を着て食べても金銭や宝石を持っても、自分のために使える量には自ずから限りがあります。
それにひきかえ、兄弟や家族、友人や社会で共有する豊かな心は、自由で広がるままに限りがありません。
心に基盤を置き、物質的にも豊かになろう、また豊かになる向上の喜びが伝えられれば素晴らしいと思います。
教えるというよりも、まず自らが気付き子孫へも気付きを促す、というようになりたいものです。
遺してあげられるもの・祖先の徳・信仰
先にあげた童話で、労働の喜び・兄弟の和合に気付き向上するという物語の主眼のそばに、父親の息子たちへの心遣いが隠されています。
息子たちの不仲を悲しみながら、何とか労働の喜び・兄弟の和合を教えようとする気持ちが伝わってきます。
自分の死を目前にしてもなお子どものことを思う気持ちは、まさに祖先と子孫の関係を感応した人間の心といえます。
自分が死んだら子孫との関係がなくなる、ということはないのですから。
私たち神理教の教信徒は、自分達の父母のみでなく御先祖の霊魂の存在とその徳を戴いていることを知っています。
同時に、私たちは御先祖の霊魂の安定を大元の天在諸神に祈り願い、御先祖には守られて共に喜びを分かち合う関係を大切にしています。
その関係を良くするのが信仰なのですから、決して強要ではなくもう一歩進んだ遺してあげられる宝物として、自らと子孫への気付きを促したいものです。
管長 |
かんなぎべ たけひこ |
巫部 健彦 |
あめつち めぐみ ただいま |
天地の 恵あればの 只今と |
おも つつし とき |
思ひ慎む 時をともながな |
地に生きるもの全ては、 いわゆる生態系を保つという状態で、強弱・遠近などの 差異はあるとしても、必ず何らかの関係を持っていると申せます。従って、そうした 自分以外の生物が共生しない限り、お互いの一応安定した現状は有り得ないとも考 えられます。 即ち、お互いの現在の生活は、共生する自分以外の生物の助力があればこそ、ま がりなりにも一応安定を得ているという事になりますし、それは、生物が生存できる 天地という環境があればこその事!という点にも思い及ばざるを得ない事になります。 我々人類を初めとする動植物が生存できるのは、いわゆる大気圏なるものが地球を 包み込んでいる故の事とされていますが、先年来、その大気圏に綻びが生じ始めてお り、動植物が生存できがたい状況に追い込まれること必至!、と指摘されております。 一方、物質的に豊かで利便な生活追求に傾倒する風潮により、自然界の大気汚染 や、環境破壊が拡がり、地球温暖化も生じて海水面上昇も見られる事となっており、海 陸いずれも生存に不適当な条件を増幅することになっている、とも申されております。 言わば、天地ともに、暮らしにくい環境に変化し始めており、このまま進めば生存そ のものも危ぶまれる事態に傾いているという事になりますし、そうした状況を招いたの は、我々人間以外に外ならず!と言わざるを得ぬことにもなりそうであります。 それもこれも、天地が備え持つ自然な「恩恵」に対し、それが人間生まれながらの生活 に則して天然自然であるだけに、却って殆ど切実に気付く機会がなく、従って理解に欠け たままの状態で対応し続けた結果?ということになるのではありますまいか。 今月は、教祖120年を締めくくる秋季大祭の月であります。我が国古来の信仰は、天地 の恩恵に「神」を感じた所に始まるとも申せますし、その古来の信仰を受け継ぐ我々としては、 改めて「天地の恩恵」への理解を深め、心から感謝奉仕せねばならぬと思いますし、そう努 める事の中で、より大きな「恩恵」を戴かれるよう祈念申し上げます。 |