(おのず)(から)(みち) 368 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

 

(古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

(筆者付記

 ()()という表記について

 筆者はこれまで、中華人民共和国の略称を中国とせず、支那と表記してきました

 一つは、日本には古くから中国地方があり、それとの区別のためと、二つに、差別用語ではない、という認識をしていたからです。

 しかし、調べて見ると(:注)(しょう)(かい)(せき)辺りから、それを嫌がる風潮があり、当時の日本政府も支那という用語を避ける通達を出したようです。

:注蒋介石=18871975孫文の後継者として、太平洋戦争後一旦中華民国の初代総統となる。

しかし、1949年、国共内戦で敗北し、台北への(せん)()を強いられる。

そこで今後は、嫌がることはしない方がよいと考え、略称は中華や中共国等に改めます。

(ちな)みに台湾は中華民国ですから、少しややこしいので北京政府や台湾も考えます)

無信仰・無神論という信仰

*有神論と無神論

時折触れる、小見出しの論議について、ご一緒に考えてみましょう。

 死後の世界が在るか無いかについても同様で、一旦帰幽し(亡くなっ)て戻った人は居ないのですから、本当は誰にも分かりません。

 

 もし死後の世界を見て戻った人が居たり、霊感で感じた人が居たりしても、それは科学で証明出来るものではありません。

 そう考えると、証明出来ずに在る無しと主張するのは、双方共『神在る教』と『神無い教』という信仰の信者と言えます。

 かくいう筆者も無信仰・無神論は、学生時代、共産主義と共に、密かに、或時はおおっぴらに唱え、論文も書いていたものです。

恥ずかしい思い出ですが、そうした主張は、何も考えないより進歩かもしれません。

 ただ『神無い教』は無いで終わり、その場限りで、それ以上深めようもありません。

 又、もしかしたら『どっちでもない派』も居るかも知れませんが、社会性が本能に在る人間には、不安定なだけだと思われます。

*有神論の深まりと、現実との整合性

 それ等に対して『神在る教』は、自身の宗教・信仰のみでなく、或時は他の宗教・信仰とも比較し叡知を積み上げてゆきます。

 あれは違うよね、とか、その部分の考え方は共感できるよね、等しながら、では自分たちはそれをどう解釈しようかと深められます。

 又、神仏にしても、どんな存在だろうとか、勧善懲悪と天国地獄は、どんな関連があるか等、想像を楽しむことが出来ます。

 神道とは違うものの、輪廻転生にしても、(しか)りです。そうした中で、言語と同じように、何千年もの叡知を集積しながら、現実との整合性がある考え方が固まってきます。

 その一つが日本民族の神道であり、それを天造の教えと捉えます。

 

*有神論である本教の目的

 これを、思い起こして頂くのが、本教の役割だと考えます。より多くの人に、本来の天造の教えに立ち返って頂きたいものです。

本教の信徒を増やすと言うのは、手段に過ぎず目的ではありません。より多くの人々に、人類の知恵である天造の教えを活用し、真の安心に近づいて頂きたいのです。

これが、本教・御教祖の主旨・目的です。

 

怒りの捉え方

*怒りの使い道

以前、七罪の一つ(ふん)(いきどうり)で触れましたが、憤・怒りは、決して悪いものではなく、神与の大切な感情の一つです。

 御教祖の遺言、第六十二條に

(いっ)(ちょう)(いかり)(しゅう)(じつ)(むな)しくするは、心の浅ましきが(ゆえ)なり。

人は(いか)るべからず。故に私事に関しては最も慎むべし。されども、国家の為、人道の為、不義不正の為には怒るべし。

怒ること(あた)わざる者は我が友に(あら)ず。我が弟子に非ず。我が信徒にあらずと、伝えています。

怒りに長い時間囚われるのは、浅ましいことだと伝えています。

しかし、(そもそ)怒りは、神から戴いた大切な感情の一つであり、決して悪いものではなく、私達に与えられた理由があるはずです。

それは、(おおやけ)の不正や間違いの放任、他人が(こうむ)っている不正義に対して、怒りという感情が備わっていると捉えるのです。

それどころか、怒るべきところを見過ごし、ただの傍観者になる人は、友達でもないし弟子でもない、と強く(いまし)めています。

*怒りを収める

しかし、自分に対してのことに、必要以上に怒るべきではない、と教えています。

他人が自分に対して行う不条理な仕打ちは、自分にも原因がある場合や、無くとも神祖からのお知らせ、と反省する機会と考えます。

もちろん、不条理に対しての指摘や反論は行っても、適当なところで収める寛容の必要を教えているのです。

そうは言っても、私達の感情は、そう簡単に制御出来る物ではありません。

いやな仕打ちや言動をされた時、不条理に対しての指摘や反論をしてもしなくても、相手への不信が拭えないことがあります。

 又、自分では嫌だと感じながらも、憎しみという感情から離れられず、その許せないという気持ちが長く続く時があります。

 多くの場合、そうしたときは、その原因は相手だけでなく、自分が別の罪に染まっているものです。

 嫌な事があったとき、同時に怒りを感じるのは、異常ではなく、健康な心の動きです。

そこで、自分が感じた怒りは、自分の事か公のことかを問い直すことです。

こうした仕分けにより、公の怒りはその力により事を為す原動力となり、私的な怒りは長く続けないように制御することが出来ます。

そうした冷静な判断の為に、神にお任せして、暗い心を祓い散らせるよう祈ることです。

 

令和3年8月号 No.1290  2021-8
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