(古神道・神理教を“本教”と記します)
(筆者付記
支那という表記について
筆者はこれまで、中華人民共和国の略称を中国とせず、支那と表記してきました
一つは、日本には古くから中国地方があり、それとの区別のためと、二つに、差別用語ではない、という認識をしていたからです。
しかし、調べて見ると、蒋介石辺りから、それを嫌がる風潮があり、当時の日本政府も支那という用語を避ける通達を出したようです。
:注蒋介石=1887〜1975孫文の後継者として、太平洋戦争後一旦中華民国の初代総統となる。
しかし、1949年、国共内戦で敗北し、台北への遷都を強いられる。
そこで今後は、嫌がることはしない方がよいと考え、略称は中華や中共国等に改めます。
因みに、台湾は中華民国ですから、少しややこしいので北京政府や台湾も考えます。)
無信仰・無神論という信仰
*有神論と無神論
時折触れる、小見出しの論議について、ご一緒に考えてみましょう。
死後の世界が在るか無いかについても同様で、一旦帰幽し(亡くなっ)て戻った人は居ないのですから、本当は誰にも分かりません。
もし死後の世界を見て戻った人が居たり、霊感で感じた人が居たりしても、それは科学で証明出来るものではありません。
そう考えると、証明出来ずに在る無しと主張するのは、双方共『神在る教』と『神無い教』という信仰の信者と言えます。
かくいう筆者も無信仰・無神論は、学生時代、共産主義と共に、密かに、或時はおおっぴらに唱え、論文も書いていたものです。
恥ずかしい思い出ですが、そうした主張は、何も考えないより進歩かもしれません。
ただ『神無い教』は無いで終わり、その場限りで、それ以上深めようもありません。
又、もしかしたら『どっちでもない派』も居るかも知れませんが、社会性が本能に在る人間には、不安定なだけだと思われます。
*有神論の深まりと、現実との整合性
それ等に対して『神在る教』は、自身の宗教・信仰のみでなく、或時は他の宗教・信仰とも比較し叡知を積み上げてゆきます。
あれは違うよね、とか、その部分の考え方は共感できるよね、等しながら、では自分たちはそれをどう解釈しようかと深められます。
又、神仏にしても、どんな存在だろうとか、勧善懲悪と天国地獄は、どんな関連があるか等、想像を楽しむことが出来ます。
神道とは違うものの、輪廻転生にしても、然りです。そうした中で、言語と同じように、何千年もの叡知を集積しながら、現実との整合性がある考え方が固まってきます。
その一つが日本民族の神道であり、それを天造の教えと捉えます。
*有神論である本教の目的
これを、思い起こして頂くのが、本教の役割だと考えます。より多くの人に、本来の天造の教えに立ち返って頂きたいものです。
本教の信徒を増やすと言うのは、手段に過ぎず目的ではありません。より多くの人々に、人類の知恵である天造の教えを活用し、真の安心に近づいて頂きたいのです。
これが、本教・御教祖の主旨・目的です。
怒りの捉え方
*怒りの使い道
以前、七罪の一つ憤(いきどうり)で触れましたが、憤・怒りは、決して悪いものではなく、神与の大切な感情の一つです。
御教祖の遺言、第六十二條に
『一朝怒に終日を空しくするは、心の浅ましきが故なり。
人は怒るべからず。故に私事に関しては最も慎むべし。されども、国家の為、人道の為、不義不正の為には怒るべし。
怒ること能わざる者は我が友に非ず。我が弟子に非ず。我が信徒にあらず』と、伝えています。
怒りに長い時間囚われるのは、浅ましいことだと伝えています。
しかし、抑も怒りは、神から戴いた大切な感情の一つであり、決して悪いものではなく、私達に与えられた理由があるはずです。
それは、公の不正や間違いの放任、他人が蒙っている不正義に対して、怒りという感情が備わっていると捉えるのです。
それどころか、怒るべきところを見過ごし、ただの傍観者になる人は、友達でもないし弟子でもない、と強く戒めています。
*怒りを収める
しかし、自分に対してのことに、必要以上に怒るべきではない、と教えています。
他人が自分に対して行う不条理な仕打ちは、自分にも原因がある場合や、無くとも神祖からのお知らせ、と反省する機会と考えます。
もちろん、不条理に対しての指摘や反論は行っても、適当なところで収める寛容の必要を教えているのです。
そうは言っても、私達の感情は、そう簡単に制御出来る物ではありません。
いやな仕打ちや言動をされた時、不条理に対しての指摘や反論をしてもしなくても、相手への不信が拭えないことがあります。
又、自分では嫌だと感じながらも、憎しみという感情から離れられず、その許せないという気持ちが長く続く時があります。
多くの場合、そうしたときは、その原因は相手だけでなく、自分が別の罪に染まっているものです。
嫌な事があったとき、同時に怒りを感じるのは、異常ではなく、健康な心の動きです。
そこで、自分が感じた怒りは、自分の事か公のことかを問い直すことです。
こうした仕分けにより、公の怒りはその力により事を為す原動力となり、私的な怒りは長く続けないように制御することが出来ます。
そうした冷静な判断の為に、神にお任せして、暗い心を祓い散らせるよう祈ることです。