御教誡十箇条(略解の詳解)42
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第四条禍いを避け病の癒ゆる厚き神徳を
忘るることなかれ11
4)信仰の正邪5
*誠の信仰2
誠の信仰から自然に導き出されるものは、自分の身に代えてでも親には孝養を尽くそう、という心意気です。
又、君(天皇陛下)を心の中心とする国を、屍骨を野辺に晒しても守ろうという、自然に湧き上がる心持ちです。
それは、逆に君からも親や祖先からも、同じような意識から支えられてきたもので、言わば脈々と受け継がれてきたものなのです。
太平洋戦争後、昭和天皇陛下が、自分はどうなってもよいから、国民の生活を守るようマッカーサーに言われたのも同じ心持ちです。
親や家族や国を守るという心が勃々(=盛ん)となって、精神に浮み(浮かび現れ)てくるという、日本魂の本領を現してきます。
そこで、神はその良心を愛し、この誠の人の身辺に付き添って下さいます。
(筆者付記
万葉集に、『海行かば 水漬く屍 山行かば
草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ(長閑には死なじ)』が遺されています。
天皇制は戦争に利用されたと言う人もいるけれど、この本質を理解すれば、過ちが繰り返される事はありません。
むしろ、アインシュタインがその歴史と共に世界の宝と称賛したように、人の本性・心情を踏まえ、理に適った制度と考えます。
これらのことを勘案し纏めると、誠の信仰というものは、世の中を良くしようという、脈々と伝わる自発的な奉仕の精神といえます。
更に遡って4)を纏めると、私たちは、迷信に迷わされず、信仰の分かれ道を正しい道へと歩むことで、誠の信仰に進む事が出来るのです。
ここでは、その心構えや方法を伝えたことでした。)
5)第二代管長の教え
第二代管長・大教主(伊豆彦大人命)の御歌に、『誠持て 祈らば思う ことごとに
願うしるしは 見ゆるなりけり』があります。
(誠心を以て祈ったならば、願い事は思えば適うという、神徳を見せて戴くことが出来る。
誠の心を持つことは、神に接するに、大切な心掛けである)ということです。
願っても、祈っても霊験が顕れないのは、未だ自分の心が誠・正直の域に達していないのだと自覚すべきです。
そこで、ひたすら誠の妙域に達するように信仰に集中して、この第四条の厚き神徳を戴ける心持ちになりたいものです。
(筆者付記
教祖の御歌には、『祈りても 験なきこそ
験なれ 神の心に 背き果てては』があります。
一生懸命に祈った積もりでも、その験{お陰}が戴けない時には、神に不信を抱きがちです。
しかし、ものは考えようで、もう少し粘り強く、何故戴けないかを振り返る心が持てたならばどうでしょう。
多くは、自然と神と祖先からの、何故適わなかったのかのお知らせに気付くことができるでしょう。
大小はあれ、私たちは気付かぬ内に罪、即ち神の心に心ならずも背いている事があります。
そして、それが穢れとなって、神からの徳が枯れる、即ち届かない状態となっています。
そのお知らせが“験なき”という形で教えられている、と受け止めるのです。
この御歌は、いつも神と祖先に近づいていようとする心構えが大切なことを教えています。
常に神と祖先の心を伺う姿勢が、大難を小難に、小難を無難にとお陰を戴く事になります。
四代管長の御歌に、『御教えの 神は如何に
思すやと かへりみしつつ 更に進まむ』があります。
神・祖先・信頼すべき人、本教人に於いては、教祖をお手本として心を近づけようと教えています。
それらの神や教祖や先人ならどう考え対処するかを考えると、解決が近づくのです。)
6)まとめ(第四条の概略・筆者付記)1
百難消除・所願成就、即ち開運の基は、正直・神気を戴き・誠を尽くすことです。
誠の本言(その言葉の持つ本来の意味)は天津・言で、神の意思・言われる事に添う心です。
誠のない人が、祖先を大事にしない人や罪を祓わず徳を積む事を知らないと同様に、子々孫々まで、病気災難に苦しむのは神理です。
知らずに罪(包み・隠す)に霊魂を覆われ、神祖の徳を穢れ(気・枯れ)として跳ね返す事となり、不運をまともに受けてしまうという事です。
誠や徳は、幼児が自主・正義・秩序感を持ち、祈りや信仰心を持っていると同様に人の本性なのです。
誠の人とは、約束に忠実で、良心に於いて決めた事は水火を厭わずに貫くという、天地の理に背かない人です。
本教の教師・教信徒・第四条を心掛ける人は、先ずこの誠の人となることを心得ましょう。
誠を尽くすことで、禍を避け病が癒ゆる、との強い信念が持て、御神徳が戴けるのです。
誠は、開運と共に信仰の基です。
本教人の信仰の対象は、周囲の人たちの信仰に協調しながらも、最終的には親を始め祖先の大元である天在諸神です。
筆者は当然のように本教の教えに信頼を置いていますが、本教も筆者も決してこの教えを押しつけようとは考えていません。
他教も同じながら、一旦一つの信教を良いと思ったならば、一定の間はその方向に集中しながら、最後はご自分で選ぶ事が肝要です。
一つに絞るのは良いことながら、それに慌てて、あちらが駄目、又あちらよりもっと良さそうなこちらと心がふらつく状態が迷信です。
迷いの本言は、禍・呼びで、よからぬものを呼び込んでしまうのです。
先入観を押しつける事を恐れずに、集中しながらの見分け方の例を次に上げて見ます。
例えば、仏教に集中する時、こだわりをすて無我を求める余り、現実から逃げ腰となることはないでしょうか。
又、キリスト教等の一神教では、宇宙人のような天の神ばかりを意識し、親や祖先と切り離された感覚に陥るのではないでしょうか。
生きるために必要な欲や拘りを頭から否定し、親・祖先からその大元を探る道を絶つ教えは、人の本性からして快くはない筈です。
(つづく)