(おのず)(から)(みち) 366 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

神道の神と他教の神仏との違い・信仰の継続

 

(古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

多くの宗教は、当初は偶像等を否定しますが、分かりやすさの為に変異しがちです。

それは、神仏名も同じです。

特定の至高とされる神仏名の弊害

 日本の一般的な神の(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)は、(かみ)(かみ)(かがみ)(かんが)みる%凾ナす。

御教祖はこれらも認めながら、(ほん)(きょう)に伝わる(こと)(だま)(がく)からもう少し深めておられます。

即ち、神の本言は、(いき)()ち≠ニ教え、  宇宙・大自然の大気を保持する意思・存在≠ニ受け止めるのです。

それは、他宗の神仏との大きな違いの一つです。

一神教のエホバや仏教の仏や如来等と違い、神道ではそうした大元の存在を神とし、特定の名前が無いのです。

本教では、(あめ)()()(なか)(ぬしの)(かみ)以下18柱を総称した(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(てんざいしょじん)を主祭神とし、その意義が具体化されています。しかし、詳しくは別の機会に譲りますが、名前はあるものの、一般神道の神と同様の(とら)え方です。

それは、多信仰の()()(やく)の神ではなく、大自然・宇宙の意思を指しての真の神です。

その違いは、例えば仏教ではこだわりを煩悩として切り捨てようとします。しかし、

その主宰仏に特定の名前を付けた時点で、

 

それのみへの信仰≠ニいうこだわりに(とら)われることになります。気付かない人が多いようですが、これは大きな違いの一つです。

特定の至高とされる教祖や教義の弊害

それは、教祖についても同様です。

一人、或いは少数に特定すると、世界宗教と言われる幾つかの宗教を見て分かるように、変異しないと時代に対応出来なくなるのです。

例えば、ユダヤ教は、キリスト教やイスラム教に分派します。そしてキリスト教は、カトリックからプロテスタントが分派し、イスラム教もシーア派やスンニー派に分かれます。

又、仏教は、本来の教えである上座部(小乗)から別の教えのような大乗が生じています。

それらに比べ、神道では、(あめの)(をし)()(みの)(みこと)(あま)(てらす)(すめ)(おほ)(かみ)(にぎ)(はや)(ひの)(みこと)等、教祖と言っておかしくない存在が多数あります。

本教では、それに加えて教祖以外にも、()()()()(ぢの)(みこと)()()(こと)宿(すく)(ねの)(みこと)等、多くの(けっ)(しゅつ)したご先祖・(せん)(だつ)が居られます。

本教の教祖もそうした傑出した伝道者の一人で、明治政府公認の為の神理教の開設者としての教祖です。しかし、この古神道である(もと)()(おしえ)を新しく創った教祖ではありません。

教祖という存在を創った時点で、それのみへの信仰≠ニいうこだわりに(とら)われてしまうのです。

そうした教祖が、創設時の時代性に合わせて性や食物や酒などに教義の戒律を設けると、どうなるか。例えは悪いのですが、暴力団の組長が、黒い物でも白と言えばそうなるような、不合理が生じます。

その戒律や教義自体が分裂の原因となり、実際に健康への問題や日常に不便が生じることになっています。時折触れているのでここでは省略しますが、性や食物や酒などは、大

 

自然なる神から戴いた理由のある物です。

(むさぼ)らなければ、むしろ人類の為になる善い物で、決して悪癖や煩悩などではないですが、それを悪と決めつけると矛盾が生じてきます。

神道も神明系や八幡系や稲荷系他多数に分かれますが、別派ではなく分担という感覚で、伊勢神宮を(ほん)(そう)に、柔らかく(まと)まっています。

*叡知の集積を芯とする確かな神への道

人類、或いは日本民族の叡知の集積を、神の意志と受け止めるのが神道の本質であり、他教との違いです。

神仏名やその働きが特定されず、ただ莫大な意思と捉えることで、叡知の集積が少しづつ、より正確な方向へ向いて行くのです。

教祖も一人や少数に特定されず、集積された教えを、その時代に合わせ分かりやすく伝えて行く人、或いは研究団体とも言えます。

それは決して固定化された神仏名や教祖についての、伝道者や研究団体ではありません。

だからこそ、時代の変化にも対応して行ける柔軟性も備えているのです。

本教では、近年では、佐野(巫部)経彦が、それらの叡知を(もの)(のべ)・巫部家の77代として、整理・体系化し、今に伝えています。

 

信仰の継続

 この辺りを理解していれば、(ほん)(きょう)の子孫への継続も自然に出来るように思います。

 そして、古神道である(もと)()(おしえ)が子孫に伝われば、ご先祖も安心し、それが子孫への守り・安心に繋がるのです。

子孫への伝道は、(いわし)の頭への信仰のように押しつけるのではなく、人類・日本民族の信仰の歴史をちゃんと伝えるだけで良いのです。

*自然な教育

例えば境内にある神理幼稚園は、神道の幼

 

稚園と言えますが、どこぞのように教育勅語を暗記させるような事はしていません。

 巫部家に伝わる神道の考え方として、人は生まれながらにして、秩序・正義・自主性を持っていると、先ず幼児を信頼します。

 後は、その三つの能力が育つ人や設備や遊具等の環境を整えるだけの事です。勿論、自分では気付かない伝えるべき事もあります。

 それは、国家に対しての誇りや自負心への意識で、幼稚園では国歌・君が代が卒園式の時に歌えるよう指導します。

 加えて、親や祖父母は、一番身近に守ってくれる神さまだから、楽しいことも哀しいことも話すようにしよう、というくらいです。

 これは偏向教育等ではなく、自然な日本の教育の基本に(もと)るものでないはずです。

*自然な信仰

 信仰の伝導も、同じ感覚です。

 先の三つに加え、安心のために祈るという行動様式を、生まれながらにして本能的に持っていると考えます。

 後は、それに気付くように(うなが)事です。

出来れば幼少時から神理教の本院や教会や神社に行き、拝礼する後ろ姿を見せるという環境を整えるだけでよいのです。

しかし、戦後敗戦の負い目からか、その習慣が衰えているのが心配ですが、是非お試し頂きたいと思います。加えて、自分では気付かない伝えるべき事もあります。

それは、先に上げたように、本教は人類、或いは日本民族の叡知の集積という事です。

ここが理解出来れば、()()()いせずとも誰もが水が流れるように神道信仰に進み(これ)を体系化した本教に(おのづ)(から)(つな)がることでしょう。

折角多数の宗教の中で本教に辿(たど)り着いたのに、子孫が又離れるのは残念です。

 これは偏向宗教等ではなく、自然な日本の信仰の基本に悖るものでもないはずです。

 

令和3年6月号 No.1288  2021-6
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