(おのず)(から)(みち) 365 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

祈り・信仰・宗教とは(”神道の悟り“からの抜粋)

 (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

*それぞれへの定義付け

 一つ目の祈りは、人が持って生れた本能だと、私は認識しています。

 40年ほど前、子どもの時の方が感じられるというような歌(ユーミン)があったものです。

物心がついて神と幽霊を意識する頃から、祈るという感覚が芽生えるように思います。

 親や祖父母に教えられる、というような引き金はあるかもしれませんが、多くがそれを素直に受け止めているのではないでしょうか。

 二つ目の信仰は、古くは太陽や海や山や大岩等を対象とし、時代が下がってくると、町や村の道祖神やお堂・神社仏閣となります。

家族や町村といった社会団体等複数で祈りますが、それぞれの団体によって、その対象も複数にわたることもあるでしょう。

 一つに限るべき、という制限等はなく、その団体の共有の崇拝の対象に、連帯感をもって祈りを捧げるものだと考えます。

 三つ目の宗教は、教えと教祖と組織の三つが揃ったものとの定義があるようで、前者二つの完成形と捉える向きもあるようです。

しかし、筆者はそう捉えていません。

 人類や民族の叡智の歴史を否定した時点で、勘違いした宗教団体に陥ると考えるからです。

 完成形には、言語と同じく積み上げられた人類・民族の整合性を含めた叡智の歴史という、もう一つが必須だと考えます。

 桁違いの天才=神の子?でも言語が創れないのと同じく、宗教も人類・民族の永い年月を

掛けての試行錯誤の結実だと考えるからです。

一般神道も古神道である本教と同じく、神官でさえ気付かない人が多いものの、叡知の集積である敬神尊祖という教義があります。

そして、(あめの)(をし)()(みの)(みこと)(あま)(てらす)(すめ)(おほ)(かみ)(にぎ)(はや)(ひの)(みこと)等、教祖と言っておかしくない存在が、組織と共にあります。

本教ではそれに加え、教祖以外にも()()()()(ぢの)(みこと)()()(こと)宿(すく)(ねの)(みこと)等、多くのご先祖・先達が居られます。

それらの叡知の集積を、神の意志と受け止めるのが神道の本質です。

しかし、その解釈の仕方や受け止め方に気付かず、或は忘れ、自ら否定する神道学者や神官が多い事を残念に感じます。

信仰の前期(本能)と後期(気付き)

 ところで、一神教の人や神道人である私などから、あなた様に信仰の有る無しを聞かれた時、確信と共に応えられるでしょうか。

例えば、本教や一神教を含む他教の教信徒を自覚している方は「有」ると答えられます。

しかし、多くは多分慌ててご自分を振り返り、家の宗旨が仏教・キリスト教・神道などと知ってはいても、判断に迷われる事でしょう。

その宗旨に確信が持てず、というか無関心から「無い」と応える人も多いことでしょう。

私は、そうした思いや言葉が出たあなた様に、本当にそうなのか確かめませんか、と問いたいと思うのです。

・前期(本能として)の信仰

信仰は、人の基本的な本性・本能である祈りを、家族や町村等の人達と共有する事です。

例えば、家の宗旨として葬祭を行う宗教に、祖先の幸せや祖先からの見守りを家族と共に願います。

又、町村の祭礼時や観光で会社や仲間と行く神社仏閣などでも共に祈ります。

その対象が複数であり、人によって敬礼の深さが違っても信仰に変わりありません。

日本人や一神教が出来る前の人類は、多神教ではなく多信仰なのです。

此に比べ、一神教の人たちは、基本的にそれ以外の神は全く信じない、というところに違いがあります。

・後期(気付きとして)の信仰

 多くの日本人は前期信仰に止まっていますが、それが悪いことはありません。

ただ、もう少し深めようとする人たちは、家の歴史や宗旨の教義を見直し、より安心で整合性に納得出来る教えを求めます。

この時点で一神教の人たちと対比出来ます。

・答え方3

一神教の人たちの問いは、その一神とは何ですか、という限られた感覚からの信仰の有る無しなのです。

それに対して、一つの教団に心から(くみ)していない大方の現代日本人として、

1特定の神仏ではなく多信仰ではあるが信仰心はあります。或いは、

2この宗派ないしは教派を信仰しています。

3自分や友人や近親者の幸福や健康を願ってはいても、敬礼の気持ちも無く、祈るまではしませんから無信仰です、となるのです。

私は、無信仰の人達は、本能である祈りを

忘れたか、理性というこれも本能から得たものから不自然に押さえつけられたのでは、と感じますが、本人の気付きを待つのみです。

一神教の人達が聞く、一つに定めた神は何かということについて、それが無いからといって、恥じる必要はありません。

それは、私たちの感覚の方が、一神教が成立する以前の捉え方だからです。又、あなた様に問う人が一神教でなく、私のような神道人から聞かれた場合もほぼ同様ながら、

1信仰心はあります、或いは

2この宗派ないしは教派を信仰しています。

3願いがあっても祈るまではしませんから無信仰です、となるのです。

何か一つだけの神仏に信仰の対象を特定する必要がないことに気付く、或いは悟っていると、信仰の有無を戸惑わずに答えられます。

・一神教と日本民族の信仰感覚の違い

こんなお話をすると、信仰は対象が何でもいいみたいで無責任に感じる向きがあるかもしれませんが、決してそうではありません。

日本人(一神教が出来る前の人類)は、自然や社会の全ての中に神性を見いだし、大切に感じてきたのです。

この感覚が自然だと考えますが、一神教は、私にはそれを無理矢理一つに習合しようとしているように感じます。

 日本本来の信仰は、何でもいいのではなく、他教を含む全ての神に敬意を表しながら、宇宙・大自然という一神を信仰するものです。

 ここに気付くと、より豊かで余裕のある考え方が出来るのではないでしょうか。

令和3年5月号 No.1287  2021-5
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