(おのず)(から)(みち) 363 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

宇宙旅行と(くし)(みたま)と宇宙人

 いつもの高校時代の同級生とのラインでのやりとりから、本教の世間様への見方を、共に考えられればと記してみます。

 皆数えで6667歳となり、老人サロンラインとは言え、元気な者は談論風発、まだまだ持病研究発表クラブにはなっていません。

 宇宙の再生論から、その外側の世界の話から、今健康だったら宇宙旅行に、行けるとこまで行きますか?と進みます。

 筆者は、本教の立場から以下を伝えました。

『行ける行けないと関連するかもと思って話すと、神道には霊魂観があってね。

日本には神道古学の流れを汲む(こく)(がく)という学問が江戸時代に有ったの習ったよね

国学は、儒教や道教や仏教が伝わる前の習俗・精神を探る(実は神道の復古と天皇家の復興を幕府に隠して図る意味もある)学問やよ。

国学者の本居宣長は、神典等から(さき)(みたま)(にぎ)(みたま)(あら)(みたま)(さん)(こん)(ろん)(とな)え、(くし)(みたま)は今の冥王星のような物で加えない、としたんよね。

でも巫部家に伝わる霊魂観は四魂論なんよ。

で、その奇魂の働きは、生きている時は、夢で神祖に通じて、過去にあった事やこれから起こる事等を聞いてくる、という力が本来あるとされるんよ。

で、此処からが宇宙に通じるかなと思ったんやけど、(くし)(みたま)は死後、その家の名字を継ぐ家門に分かれ、(あま)(かけ)(くに)(かけ)りてどこまでも行き来しながら、子孫を守るとされとる。

やけ(=だから)、生きとっ(=)てもいわゆる霊感が強い人は、宇宙の果て迄も行けるやろし、死後肉体から解放されたら、誰でもそうなる!とも考えられるね。

もしかしたら、宇宙人のナンパーセントかは、奇魂なんかもと思う事がある。』という、お(とぎ)(ばなし)めいた話をしたものです。

奇魂への感覚の(つか)みが共感出来ればと思い、ここに紹介しました。

 

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))40

第四条(わざわい)いを()(やまい)()ゆる厚き神徳を

    忘るることなかれ9

4)信仰の正邪3

*信仰の分かれ道2

(9月号の省略

 正しい信仰とは、()(がみ){=主祭神=本教では天在諸神}を祈りつつ、従神のご()(やく)を願い、或いは感謝するものです。

 そうでない教えを信じてしまうと、(えん)(せい)(かん)や親子関係の軽視から、現実との整合性をい、不都合な事が起こるものです。

 エホバやキリスト・マホメッド、如来や釈迦を第一とするのは良しとしても、他は全て平等とすると、現実と(かい)()してしまいます。

そうなれば、社会は秩序の無い平等思想に(おちい)、皇室や先祖や親や社会的指導者は、一緒くたに二の次となります。)

(筆者付記

・主祭神・仏以外全て平等の考え方の(へい)(がい)

宗教団体がその主祭神・仏のみを尊いとする考え方は、様々な弊害を生んできました。

例えば、日常の業務を現場の実情を知らない宗教従事者を長にすると、宗教や道徳以外では、具体的な指示が出来ません。そこで、

現実の歴史は、実力者の王侯や将軍や政治家を矢面に立てる内に、主従が逆転、又は名目のみの主となる事を繰り返してきました。

そうした現実社会に序列を認められない矛盾は、返って混乱を招いて来たのです。

・本教と他教の修行の違い

古神道である本教は、現実こそが神から与えられた私たち修行の場・教えを活用する場である、と考えます。それとは違い、

 (じょう)()()(小乗)仏教は、釈迦のように妻や子を捨ててでも、現実から遊離した環境で命を掛けて行うのが修行、ということのようです。

本書の著者である故小田清彦教正は、修行の本質を忘れた逃避且つ自己満足に過ぎない、と指摘しているのです。

修行の本質を、先祖と社会や家族と自身の安心とする本教に対して、自身の為のみの()(だつ)と悟りを目指す()(りき)(ほん)(がん)は、基本的に違います。

大乗仏教は、()()()()()(ぶつ)()()(みょう)(ほう)(れん)()(きょう)(とな)れば極楽に行けるという教えです。

阿弥陀や法蓮華経を信じさえすれば良いという()(りき)(ほん)(がん)は、分かりやすく目先の安心には良い時代もあったのかもしれません。

それは、キリスト教の、より具体的な、お金を払えば天国に行ける免罪符を貰えるにも似ています。

・本教と他教の天国観の違い

しかし、この考え方は、死ねば極楽・天国という部分が安易に受け止められ、自殺が安易に考えられるようになりかねません。

更に、その考え方が()(えん)利用され、例えば日本でも(いっ)(こう)(いっ)()等で死ねば極楽として、

現世の命が軽くされた事がありました。

それは、近世までのキリスト教や、現代のイスラム教でも、一部と言う事ですが、テロ等に誘導する教義のように使われています。

因みに、終戦期の特攻隊は決して同調はしませんが、少し意味が違います。それは、神道の(たか)(まの)(はら)()(わか)(みや)と、他教の極楽・天国とは似て非なるものと言えるからです。

神道の神の世界は、子孫を見守る幸せを得られる処で、他は主に快楽を得ると受け止められる処との違いです。自分の命が子孫の幸せに役立てられるなら、それを見守るのが天国に居るのと同じとの感覚です。神道では、現世も帰幽後もその命・霊魂は大切と考えます。)

 こうした分かれ道を間違えてしまった人の多くは、神と先祖からの徳を受けることが出来ません。

 そうなると、運・不運の波を(かわ)せず、七十・八十の天寿を待つことが出来ません。

 惜しくも人間として一番盛んな時を、素晴らしい将来を夢見ながらも、蕾のまま散ってしまうような、残念な結末となります。

また、馬の頭や狐や狸を信仰すれば、益々心は腐敗して、動物にも劣る、本能のみに(かたよ)った心を持つことになります。

何を信仰するかの違いから、人の一生の境遇が変わり、貧富の別やその人の評価が上下することになります。

(筆者付記)

神から戴いた同じ力を社会でどう活かすかによって、貧富の差だけでなく、人間としての在り方についての評価にも関わるのです。)

 間違った信仰は、信仰しないより悪くなることさえありますから、その信仰の正邪を見分けることが肝要です。     (つづく)

令和3年3月号 No.1285  2021-3
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