宇宙旅行と奇魂と宇宙人
いつもの高校時代の同級生とのラインでのやりとりから、本教の世間様への見方を、共に考えられればと記してみます。
皆数えで66・67歳となり、老人サロンラインとは言え、元気な者は談論風発、まだまだ持病研究発表クラブにはなっていません。
宇宙の再生論から、その外側の世界の話から、今健康だったら宇宙旅行に、行けるとこまで行きますか?と進みます。
筆者は、本教の立場から以下を伝えました。
『行ける行けないと関連するかもと思って話すと、神道には霊魂観があってね。
日本には神道古学の流れを汲む国学という学問が江戸時代に有ったの習ったよね。
国学は、儒教や道教や仏教が伝わる前の習俗・精神を探る(実は神道の復古と天皇家の復興を幕府に隠して図る意味もある)学問やよ。
国学者の本居宣長は、神典等から幸魂・和魂・荒魂の三魂論を唱え、奇魂は今の冥王星のような物で加えない、としたんよね。
でも巫部家に伝わる霊魂観は四魂論なんよ。
で、その奇魂の働きは、生きている時は、夢で神祖に通じて、過去にあった事やこれから起こる事等を聞いてくる、という力が本来あるとされるんよ。
で、此処からが宇宙に通じるかなと思ったんやけど、奇魂は死後、その家の名字を継ぐ家門に分かれ、天翔り国翔りてどこまでも行き来しながら、子孫を守るとされとる。
やけ(=だから)、生きとっ(=て)てもいわゆる霊感が強い人は、宇宙の果て迄も行けるやろし、死後肉体から解放されたら、誰でもそうなる!とも考えられるね。
もしかしたら、宇宙人のナンパーセントかは、奇魂なんかも!と思う事がある。』という、お伽噺めいた話をしたものです。
奇魂への感覚の掴みが共感出来ればと思い、ここに紹介しました。
御教誡十箇条(略解の詳解)40
第四条禍いを避け病の癒ゆる厚き神徳を
忘るることなかれ9
4)信仰の正邪3
*信仰の分かれ道2
(9月号の省略
正しい信仰とは、真神{=主祭神=本教では天在諸神}を祈りつつ、従神のご利益を願い、或いは感謝するものです。
そうでない教えを信じてしまうと、厭世観や親子関係の軽視から、現実との整合性を失い、不都合な事が起こるものです。
エホバやキリスト・マホメッド、如来や釈迦を第一とするのは良しとしても、他は全て平等とすると、現実と乖離してしまいます。
そうなれば、社会は秩序の無い平等思想に陥り、皇室や先祖や親や社会的指導者は、一緒くたに二の次となります。)
(筆者付記
・主祭神・仏以外全て平等の考え方の弊害
宗教団体がその主祭神・仏のみを尊いとする考え方は、様々な弊害を生んできました。
例えば、日常の業務を現場の実情を知らない宗教従事者を長にすると、宗教や道徳以外では、具体的な指示が出来ません。そこで、
現実の歴史は、実力者の王侯や将軍や政治家を矢面に立てる内に、主従が逆転、又は名目のみの主となる事を繰り返してきました。
そうした現実社会に序列を認められない矛盾は、返って混乱を招いて来たのです。
・本教と他教の修行の違い
古神道である本教は、現実こそが神から与えられた私たち修行の場・教えを活用する場である、と考えます。それとは違い、
上座部(小乗)仏教は、釈迦のように妻や子を捨ててでも、現実から遊離した環境で命を掛けて行うのが修行、ということのようです。
本書の著者である故小田清彦教正は、修行の本質を忘れた逃避且つ自己満足に過ぎない、と指摘しているのです。
修行の本質を、先祖と社会や家族と自身の安心とする本教に対して、自身の為のみの解脱と悟りを目指す自力本願は、基本的に違います。
大乗仏教は、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経を唱えれば極楽に行けるという教えです。
阿弥陀や法蓮華経を信じさえすれば良いという他力本願は、分かりやすくて目先の安心には良い時代もあったのかもしれません。
それは、キリスト教の、より具体的な、お金を払えば天国に行ける免罪符を貰えるにも似ています。
・本教と他教の天国観の違い
しかし、この考え方は、死ねば極楽・天国という部分が安易に受け止められ、自殺が安易に考えられるようになりかねません。
更に、その考え方が敷衍・利用され、例えば日本でも一向一揆等で死ねば極楽として、
現世の命が軽くされた事がありました。
それは、近世までのキリスト教や、現代のイスラム教でも、一部と言う事ですが、テロ等に誘導する教義のように使われています。
因みに、終戦期の特攻隊は決して同調はしませんが、少し意味が違います。それは、神道の高天原・日の若宮と、他教の極楽・天国とは似て非なるものと言えるからです。
神道の神の世界は、子孫を見守る幸せを得られる処で、他は主に快楽を得ると受け止められる処との違いです。自分の命が子孫の幸せに役立てられるなら、それを見守るのが天国に居るのと同じとの感覚です。神道では、現世も帰幽後もその命・霊魂は大切と考えます。)
こうした分かれ道を間違えてしまった人の多くは、神と先祖からの徳を受けることが出来ません。
そうなると、運・不運の波を躱せず、七十・八十の天寿を待つことが出来ません。
惜しくも人間として一番盛んな時を、素晴らしい将来を夢見ながらも、蕾のまま散ってしまうような、残念な結末となります。
また、馬の頭や狐や狸を信仰すれば、益々心は腐敗して、動物にも劣る、本能のみに偏った心を持つことになります。
何を信仰するかの違いから、人の一生の境遇が変わり、貧富の別やその人の評価が上下することになります。
(筆者付記)
神から戴いた同じ力を社会でどう活かすかによって、貧富の差だけでなく、人間としての在り方についての評価にも関わるのです。)
間違った信仰は、信仰しないより悪くなることさえありますから、その信仰の正邪を見分けることが肝要です。 (つづく)