御教誡十箇条(略解の詳解)45
(古神道・神理教を“本教”と記します)
第五条世は大なる一家なることを
忘るることなかれ2
3)古神道復活の契機
(筆者付記
2)で述べたように、日本人は強要された寺請制度等により、信仰の自由を奪われると同時に、神道の歴史や教義が忘れられてきました。)
しかし、明治維新という天の運が巡ってきて、今日のような公明正大な世となりました。
そこで、国内はもとより世界各国まで行き来が出来るようになりました。
世界中に離れて住んでいて、お互いに会ったことも思ったこともなかった地域の人と、同じ人間として名乗り合うことが出来ます。
こうしたことは、実に素晴らしいことです。
明治維新は、神の御心として、そうした自由を得ることになったと言えます。
(筆者付記
人種こそ違え、同じ人間がお互いを知り、助け合いの神の世を作られようとする神の意志が働いた結果と言えます。しかし、
・不都合な真実
明治維新になり、国家神道という概念が公になったのは有り難いものの、仏教の力は根強く、なお不都合な面も遺されます。
例えば神道での葬儀・霊祭が出来るのは、神社神道の神官と家族だけで、神官が神社の氏子に葬儀・霊祭を行う事は出来なかったのです。
幕末に浄土真宗に恩義を受けた長州藩出身の政府枢要者が、真宗等の訴えを受け入れた結果でした。
:注真宗からの恩義=幕末に幕府方の会津・薩摩藩等と長州藩の仲違いから蛤御門(禁門とも言う)の変(元治元{1864}年)が起こる。
負けた長州藩の藩士を、寺請制度等で幕府に恩義がある筈の浄土真宗が匿うという政治的判断が、そうした訴えが通る下地となった。
その訴えとは、政府から補助を受ける神社神道の神官は国家官僚である、という理屈です。
国家官僚が葬儀・霊祭や布教等の主教活動は出来ないでしょう、という主張を真に受けたものでした。
そんな経緯もあり、認可のみで補助のない本教のような教派神道13派だけが、神官と信徒にも葬儀・霊祭が許されたのです。
従って、明治以降も大部分の国民が神道による葬儀・霊祭が行えなかったのは、意外に知られていない不都合な真実と言えます。
神社神道との神葬祭の競争もなく、一見教派神道の痛痒は少ないものの、本来の在り方への回帰からは、遠ざかることになります。
結果的に、なし崩し的に本当に自由になったのは、太平洋戦争が終わってからです。
しかし、神道による葬儀・霊祭の意義も方法も忘れてしまった多くの神官は、死を穢れと誤解する等して、自ら近づく人は少数でした。
死自体は穢れなどではなく、神の世界に帰るのですから寂しいながらも有り難い事です。
死に伴う哀しすぎる悲しさや、悔しすぎる悔しさが生きる意欲を削ぐ事が、穢れ(=気が枯れる=神祖からの徳を妨げる)になるのです。
過ぎた悲しさ悔しさを祓う方法の一つが塩を使うことで、それは昔から伝わっている日本の信仰の文化とも言えます。)
4)教祖の志
(筆者付記
教祖は物部・巫部家に伝わった教えから、人は神の意志を受け継ぎ、神の力を戴いて、この世を神世にするものと悟り志されていました。
その方法に拘りは無く、必然の偶然で心を癒す古神道の教義と、身体を治す古医道が伝わっていたから、それを活かされたのです。
神徳と教義の開示と古医道は、それを出来る人が他に無く、且つ有効と思われたからです。
世を良くする方法に拘りが無いと言うのは、本教の独立運動の最中に門司港開発に熱心に取り組まれた事からも察せられます。
教団内の人達から、今は門司港よりも独立の方に力を注いで欲しいとの当然の願いを聞かれなかったのは、何故でしょう。
それは、これも自分しか出来ず時は今、と思われたからだと考えられます。
世の為人の為なら何でもやろうと思われたであろう事を前提として、その志の表し方を次に述べています。)
・医師として
教祖は若いときは神のお導きで医師の仕事をされたのですが、もうこの時には『世は大なる一家』ということを悟られていました。
従って、患者には親切を心得とし、もし貧困して自分の力で療養はおろか生活も出来ない人には手持ちの金品を与えられました。
(筆者付記
門前市を成す程の忙しい診断の合間を割いて往診に出かけた家で、礼金を取らずに手当てをすることもありました。
尚且つ、その家の貧困を見た時には、枕の下にお金を忍ばせる、ということも往々であったようです。
教祖は古医道の実技を医家である錦小路家に学び、家伝の医道と併せて皇国医道を確立されました。
そこには、霊魂観や言霊学を元に、医術だけではなく、先祖や家族との関わり方等、安心への心の持ち方も含まれていたのです。
その効能は著しく、門前市を成すようになったことから、周囲の医師の嫉妬を買うようになり、魔術を使う等と讒言をされました。
小笠原藩(現在の北九州市から筑豊辺り)は、それを真に受けて教祖を捕らえるのですが、藩医の原養碩の弁護により救われます。
原養碩と教祖は、西田直養を国学の師とする同門の門弟だったのです。
その後、藩からは正式に開業の認可を受けますし、明治に入っては、皇室医道掛の井上頼圀との面識もあり、国からも許可を受けます。)
・宗教家への自覚
その内に、教祖は熟考され、
『医師の仕事も他人を温かく思いやる仁術で、誠を以て世の為に技術を捧げるのは、神の心に適っている。
しかし、傷病という結果を治す仕事に拘り合ってばかりでは、広い天下の傷病の根を絶つことは出来ない。
より根本的に天下の傷病を救うには、心がけを正す教えに依るのが、より効果的である。』
と思い至られたのです。
(筆者付記
個々人の傷病の治療は大切ですが、それらの原因ともなる政治やその元の施政者や国民の心の持ち方がより大局と悟られたのです。
その根本精神を、教えを以て正す教義が、古医道と共に物部・巫部家に伝わっていることから、その使命を強く自覚されたのでした。)
けれども、頼る人が多い中で、簡単に医師としての仕事を止めてしまう訳にはいきませんでした。 (つづく)