(おのず)(から)(みち) 371 管長 (かんなぎ)()(さち)(ひこ)

()(きょう)(かい)(じゅっ)()(じょう)((りゃっ)(かい)(しょう)(かい))44

 (古神道・神理教を“(ほん)(きょう)”と記します)

第五条世は大なる一家なることを

忘るることなかれ1

1)平等と博愛

 教祖は、広く平等に愛するという博愛の心の強い方でしたから、その心持ちをそのままこの御教誡に加えたのです。

これは同時に(あめに)(ます)(もろもろ)(のかみ)(てんざいしょじん)(おお)()(こころ)あり、まさに『世は大なる一家』である、というこの世の捉え方です。

(筆者付記      ←筆者付記・注は、字小・行間細め

 教祖は私達に、全ての人や動植物を愛するという、持って生まれた自然な気持ちを大切にすることの素晴らしさを説いています。

 そして、その気持ちを実行に移し、困っている人を助け、不安な人を安心に導くという、(いたわ)りの心を持つように望んでいるのです。

 安心を本教風に言えば、()(こん)((さき)(みたま)(にぎ)(みたま)(あら)(みたま)(くし)(みたま))の安定(安心の本質)です。

 本教には四魂の働きや役割が伝わり、それに合わせた活用や調和の為の祝詞等により、その調和・安定・安心に導く手法も伝わっています。

 そうした安定の大切さは、人だけでなく、自然の中で共に生きる動植物も同じです。

 人は人、動植物は動植物でそれぞれの役割を受け持っているならば、それを果たせるような主体的な心遣い・優しさが必要なのです。

 神の子孫である人は、(まさ)にその主体者です。

それが理解出来れば、先ずは、そうしようとする心持ちが大切で、後は、伝わった手法から自分が出来る物を選んで実行することです。

実行することで、私達人間には自然に、一層強い優しさや実行力が生まれるものです。

 それは同時に、共に生きるということを理解出来る私たちの役割で、『世は大なる一家』とは、そうした心持ちを伝える言葉です。

 教祖は、天在諸神の御心を自分の心として実践して示し、その調和の心の大切さや心地よさを私達に伝えようとしているのです。

 全ての人や動植物への平等な博愛の心持ちこそが、私達自身にとっても安心を得る道に進むことになることを教えているのです。

 私達も神と教祖の心を自分の心として、実践できるよう心を進めたいものです。)

2)人は神の子

 江戸時代は()(こく)政策で一部を除き貿易を含む外国との交流が禁じられ、幕藩体制により国内でさえ自由な往来が出来ませんでした。

 同じ日本の中でも藩は一つの国と見なされ、それぞれの藩も基本的に鎖国状態でした。

 だから、東の人が西の筑紫(=九州)に行くことも、筑紫の人が東に行くことも簡単にはできなかったのです。

 (はなは)だしいものでは、村という小さな単位でもそれぞれに(おきて)あって、交際や情報交換に大変不便でした。

 江戸時代からは、人民は大きな束縛を受け、同じ国の人間がいることを知っていながら、自由な交わりをすることが出来ませんでした。

 又、本来先祖崇拝に意識の薄い仏教が(しゅう)()(葬儀・(みたま)(まつり))と戸籍を取り仕切る、(てら)(うけ)(せい)()が強制され、信仰の自由が奪われました。

 (筆者付記

 寺請制度を設けた理由は、表向きは戸籍の掌握とキリスト教の排除ですが、裏の目的は王政復古を防ぐためでした。

その証拠に神社請は禁止されます。

神社の力が強くなると、その本宗・本家である天皇家に国民の意識が向かいます。

徳川幕府は、それによって、何度も繰り返された王政復古の歴史を知っていたからこそ、天皇家と国民の関係を希薄にしたかったのです。

その徹底ぶりは、神社の神主の葬儀さえ仏式にさせた程ですが、その強圧の前に誰も(あらが)事ができなかったのです。

江戸時代の神社は、若干の保護という飴と鞭の政策に、神官も骨抜きにされ、神道の布教も葬儀・霊祭の習慣も忘れられて行くのでした。

あげくに、葬儀・霊祭を奪われた負け惜しみのように、死は穢れだから僧侶にさせる等と言う神官が増えて行くのです。

時折触れる事ながら、死の(ほん)(げん)(その言葉の持つ本来の意味)は、()()(人に添っていた神の分霊が)()る(神の世界に帰る)、です。

神から分け戴いた霊魂が又神の元に帰るのは、寂しいことながら有り難い事でもあるのですから、死が穢れとは、大きな勘違いです。

神官の本来の役割の一つは、死者の霊魂がちゃんと神の元に帰られるよう式を行ったり手法を伝えたりする事の筈です。

仏教にとっては、図らずも思うつぼだったことでしょうが、日本固有の信仰文化の衰えは、現代にも影を落としています。

しかし、日本本来の習俗を研究するという名目で何とか国学が許され、そこから勤王思想が復活し、明治維新の原動力の一つとなります。

とは言え、多くの現代の日本人はその事実や歴史の経緯を知らず、神道の存在意義に、神官でさえ気付く人が少ないのは残念です。)

 国内の藩単位の鎖国状態と、寺請制度の弊害は、巫部家だけでなく神道一般も、広く神の(ことわり)を説くことが出来ない事でした。

 多くの神社は()()(やく)のみの民俗信仰に後退し、葬儀・霊祭のみでなく、教義も薄れて行く事になります。

 その為、江戸時代の人々の多くは、人が神から生まれ天皇家を本家とするという受け止め方を忘れて行きました。

 そこで、私達の多くは、人類少なくとも日本人は、皆祖先を同じくする家族のようなものである事を忘れたのでした。

(筆者付記

 仏教やキリスト教のように、神や仏の前では天皇家も私達も皆平等という考え方を私達がどう受け止めるかです。

 古神道を受け継ぐ本教では、天皇家について、同じ神の子孫でありながら、私達の精神的支柱となる特別な本家のように捉えています。

 仏教の原点はヒンズー教の支派との学説もあり、死ねば色んな動物に生まれ変わりながら()(だつ)を目指すと考える宗派が多いようです。

 従って、仏のみを大切にする事から親と子の繋がりは薄く、まして祖先を尊崇するという概念は日本に渡来するまで無かったのです。

 仏教にとって、大元の存在と人とは血の繋がりではなく、祖先は神道人が思うほど大切なものではないのです。

 これに比べ、神道は、日本人のみでなく、世界中の人は皆大元の先祖を同じくする兄弟姉妹と考えるのです。

 江戸後期、教祖の父(つね)(かつ)は、巫部家伝承の、人本来・真の信仰である神道を広めようとしますが、まだいかんともしがたい時代でした。

 経勝は、()(いの)(くに)(にの)(みや)(じん)(じゃ)(ぜん)(ぐう)()(さか)()()(そう)(おう)に国学{=日本本来の習俗・文化}を学ぶと共に神道の復興を(こころざ)すも果たせませんでした。

 そこで、巫部家の意思を教祖に託し、教祖はそれに見事に応えたのでした。)  (つづく)

 

令和3年11月号 No.1293  2021-11
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