生きる意味・祈る意味
(古神道・神理教を“本教”と記します)
生きる意味は無い?
最近、NHK教育番組の宗教・人生についての『こころの時代』で、フランス人の禅の修行者への取材を観せて頂きました。
近畿地方の禅寺の主管をしている方で、毎日五時間程の座禅を三十年も続け、そのお寺の修行者の半数近くが外国人との事です。
近く、日本女性に後継を託し、自分は大阪に住み、一般の人に禅を伝えるとの事でした。
自身は牧師の子どもで、幼い時から生きる意味に興味を持ち、親に聞いても得心がいかず、日本の禅に巡り会ったとの事です。
フランスにもキリスト教の修道院があり、親の宗派と違ったからか、どう違うか等興味深かったのですが、経緯は不明でした。
その禅に揺蕩う感覚の中で辿り着いた結論は、生きる意味は無いという事だそうで、その気付きに、安心を得たのだそうです。
大阪に住んでからは、色んな人に修行を促し生きる意味は無いという事に気付いてもらう事に生きがいを見いだすのでしょうか。
この方は、生きる意味は無いという事に気付くことで、本当に安心したのでしょうか。
筆者は、驚きと共に大変残念に感じました。
筆者は、日本の禅宗の祖とされる、曹洞宗の道元や臨済宗の栄西の教えは不勉強ですが、それらはどう伝えているのでしょう。
もしかしたら、日本の禅宗のお坊さん達も同じように意味は無いと思っていても、社会的影響を怖れて口にしないのかと想像します。
又、教えは意味は無いとしても、各人はそう思ってない、のではないのでしょうか。
又、禅寺は修行の場を与えるのみで、後は自分で悟りを開く所なのでしょうか。
まあ、このフランス人の禅僧は、正直に学んだ事を口に出しているのでしょう。
筆者は、以前ここに、フランスの修道院が『大いなる沈黙へ』の題名で映画化されたのを観た感想を書いたことがあります。
それと同じで、筆者はこの考え方を『大いなる勘違いへ』ではないかと感じました。
人類は色んな分野に挑戦するものですから、一見非生産的で無駄に思える修行も、筆者は全体にとって決して無益だとは思いません。
でも、それを行った後、生きる意味は無いとは、本当にそうなのだろうかと思います。
まあ、筆者は教祖に習い二十一日間くらいしか行っていませんから、三十年行った人の理解は出来ないと言われればそれまでです。
しかし、三十年行っても生きる意味は無いのか、三十年行ってもたどり着けなかったから負け惜しみでそう言うのか、不可解です。
傲慢な推測かも知れませんが、筆者には、後者か勘違いのように思われます。
生きる意味
時折お伝えする事ですが、生きるの本言(=その言葉の持つ本来の意味)は、息・入るです。
神の気が赤子で生まれる私達の頭(魂・在処=魂の鎮まり処)に入るのですから、それだけでも意味があります。
倭建命の歌で、
『倭は 国のまほろば たたなづく 青垣
山隠れる 倭し美し』の後に、
『命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の
熊白檮が葉を 髻華にさせ その子』
があります。
日本の自然の美しさを称えた後、戴いた命を、踊り歌うことに象徴させ、人生を嬉しく楽しく過ごしなさい、と伝えています。
自分の死を前に、生きる人たちに対して、寿ぎ・祝福の気持ちを伝えているのです。
筆者はこの歌に接する時、常に胸の高鳴りと共に、感動の涙を禁じ得ません。
生きることを楽しみ、一緒に楽しむ人を増やすことで社会をこの世の神代のようにして、恩恵を与え合う喜びを味わう。
そして、帰幽(=死)後も、祖先となって子孫も見守り、その喜びを楽しみとする、という顕幽を通じての役割・喜び・意味があるのです。
家族や子孫が無くても、例えば修行の場でも、楽しみやそれに伴う笑いが生きる意味になっていることに気付いて頂きたいものです。
私達は、その境地に達するように心を清め、行いを正す道を歩むことを喜びとすることを、祖先から伝えられてきました。
是非、忘れないようにしたいものです。
生きる意味は有る!
神仏の有無と同じで、先の禅宗のお坊さんの言う生きる意味が無いとなれば、そこからはもう発展しようがありません。
しかし、有るというのは、先に挙げた他にも、私はこうだから有ると思うとか、意味の
在り方について深まり・伸びしろがあります。
生きる意味は有ると捉えたいものです。
祈る意味
今、世界はコロナを怖れながらも、何が出来るかが模索されています。
以前お話しした事ながら、祈りも決して消極的な行動ではありません。祈るしか出来ないからと言うより、祈りは必ず共鳴し、それがその目的の達成への意欲となります。
その意欲が、達成への工夫や努力という具体的な活動に繋がると考えるのです。
筆者は、新型コロナ発生以来、朝の神拝式を始め、造化宮参籠や月次祭や大祭に至る迄様々な場でその平癒を祈ってきました。
しかし力及ばず、その猛威は秋の大祭にも四度宿泊不可や自粛を余儀なくされる事となりました。
それでも私達は、共に祈りを継続させながら、粘り強く慎重に状況を判断して、出来ることを行って行きたいものです。宗教や教団に関わらず祈りを力として輪を拡げ重ねる事で、その意識を形に出来ればと思います。
筆者は今、毎朝の神拝式の祈念詞の前に、
『斯く宇豆の御前を拝み奉る何月何日の朝に、別て大国主命・少彦名神・教祖神と御名を称して、新型コロナとう疫病をし祓へ給ひ、且は併せ来むとする禍をし鎮め給ひ、加えて之世をば、体健けく心豊けき世と令栄給へと祈み奉りて称辞畢え奉る』を唱えます。
同じ時間でなくとも、ご一緒に心を合わせましょう。